松 崎 宿 場

松崎宿北構口 松崎宿南構口
市指定史跡、構口の跡としては全国でも代表的なもの。
寛文8年(1668)有馬豊範が久留米藩から分家し、旧御原郡1万石の領主となって、その後松崎に宿ができ、南は久留米府中から松崎を通り
北は山家を結ぶ松崎街道ができた。松崎宿の入口と出口には構口と呼ばれる石垣に土塀を築いた門構えが設けられていた。
構口の外側には人物検問所といって久留米藩より藩士や足軽が派遣され、通行人を監視し取り締まっていた。
また、穀物番所も設けられ穀物の監視を行っていた。
現存する構口の跡としては松崎宿の南・北構口は全国でも代表的なものである。
構口から宿場に入ると道は直角に鍵形に折れ曲がっている。
これを枡形道路という。
見通しをさえぎり、人馬の進入を防ぐためのものであった。
構口と桝形道路は江戸時代の宿場に共通したもので、一つの城としての軍事警察の役割を果たしていた。
松崎街道は通行量が多く、南の府中宿と山家宿の中間にあって、交通量の多い長崎街道と日田街道との三大街道が合流する山家宿に次ぐ宿場であった。
諸大名の宿泊施設の本陣(お茶屋)、本陣の補助施設として幕府の役人・旗本などが宿る脇本陣があった。
一般の旅人が宿泊する旅籠屋が26軒、この他に「木賃宿」が数軒あり、主に旅芸人・巡礼者・虚無僧などが利用した。
また団子や甘酒を売り、必要に応じて酒肴を売る立場茶屋も数軒あったといわれている。
(説明欄)小郡市役所のホームページ。


松崎桜馬場(約300mの通りに桜並木)

筑後松崎1万石の領主となった有馬豊範は、城から街道に通ずる通りの両側に、土堤を築き桜を植え、馬場として「桜馬場」と名づけたといわれている。江戸時代から明治・大正の頃までは有名な桜の名所であった。今も三井高等学校門前の道路北側に「名勝桜馬場」と刻んだ石碑が立っている。現在は、約300mの通りに約150本の桜並木があり毎年4月第1土曜日には、地元松友会(しょうゆうかい)による桜まつりが開催されている。
(説明欄)小郡市役所のホームページ。


代官・服部六左ェ門の墓(霊鷲寺境内)
霊鷲寺境内には、代官・服部六左ェ門の墓の他に久留米藩家老・稲次因幡の墓がある。
服部六左ェ門の墓の説明板には、次のような記載がある。
この正面にあるのが代官服部六左衛門重昌の墓で、「代官墓」ともいわれている。
寛文8年12月有馬伊予守豊範が久留米藩の内松崎領1万石をうけて領主となり、松崎城を築いてこの地方を治めていた。その後、幕府は貞享元年7月(1684)松崎領を没収し、天領にした。
翌年貞享2年6月、幕府は服部六左ェ門を代官として松崎に赴任させた。赴任以来6年間代官をした。代官の政治は、元禄10年(1697)松崎領が久留米藩に返還され、幕府の代官が江戸に引き上げるまで13年間続いている。
(説明欄)説明版から抜粋。

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