第15回 久留米ん町探検 長崎街道の佐賀路と宿場跡

 実 施 日 :2016年4月23日(土曜日)

「昔の面影を残す長崎街道の佐賀路と宿場跡」です。

長崎街道は小倉から長崎間57里(228km)を25ヶ所の宿場で結んでいた。
鎖国体制の中で、幕府の唯一の貿易港であった長崎には、海外から
人物・知識・文化が入り、長崎街道は重要な”文明ロード”といわれていた。

筑前原田(はるだ)宿を過ぎた田代宿から嬉野宿までの13宿が佐賀路です。

今回は小倉~長崎57里25の宿場で繋がれた中の
「轟木宿跡」と「田代宿跡」を探り(さぐり)街道筋を巡り(めぐり)
 健康増進(歩き)ウォーキングを楽しみます。

*鳥栖駅~轟木宿~瓜生野町(昼食)~田代宿~鳥栖駅(約12㌔)

*瓜生野町(街道筋)で(昼食は全員)後下記の歩きも出来ます。
*鳥栖駅~轟木宿~瓜生野町(昼食)~鳥栖駅(約5㌔)




・集合場所:JR鳥栖駅

・集合時間: 9:00受付 
・参加人数: 23名 
・会   費: 1,000円
・出   発:  9:30分   
・解   散: 14:30分

 ・コースは下記の通りです

 1、鳥栖駅

 2、轟木宿 
  
 3、瓜生野町

 4、昼食 
 
 5、田代宿 

 6、鳥栖駅

 

出発前の集合写真

 
 

ボランティアガイド大石隊長

  熱心に耳を傾ける
 

轟木宿を目指して行進 

鳥栖駅の近く轟木宿(鳥栖市)は鍋島藩領の東端にある宿場町で、
上町、中町、下町、新町の四町からなっていて、
対馬藩領とは轟木川を境にして分かれていた。

江戸時代の記録には、「人家140軒ばかり、宿屋・茶屋多し」と記されている。

 
 

菅公姿見の池

菅原道真公が養子に出したわが子に会うためこの地に訪れ、
池に映る自分の姿を描いてわが子に与えようとしたのが姿見の池の伝説である。

 
     

姿見の池の看板

 
  姿を映した池! 

番所川を渡り、静かなたたずまいの日子(ひこ)神社がある。
神社の境内には肥前石工がつくった独特の形をした鳥居が
今も古めかしい姿を見せている。

日子神社の鳥居の左手には制札場(=高札場)があり、
幕府の法令を掲げていた。

伊能忠敬はこの制札場を長崎街道測量の基点にしている。



   
嗚呼忠霊の碑 
日子神社の二の鳥居(年代ものの肥前鳥居)

   
 
長崎街道 轟木宿跡

 
六面地蔵

人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,
天という六道の境涯を輪廻,転生する。

 
長崎街道の現存風景

 
 

 江戸に幕府を開いた徳川家康は、出身地である三河の「秋葉権現」を
江戸の火伏せ(防火)の神とした。そして江戸から各地へと秋葉神社が広まった。

 瓜生野新町の火伏せの神「秋葉神社」の前は道幅が広くなっている。
火災の際の火除(ひよけ)地「広小路(ひろこうじ)」の名残である。

 

秋葉町の旧家

昔は瓜生野今町と呼ばれ、街道筋では最も良く当時の面影を残している町並みで。
門、格子、馬繋ぎなど馬の手綱を縛る鉄の輪環が現在も見られる。

 
 

八坂神社

鳥栖市瓜生野町の長崎街道沿いのあり、
正安元年(1299)山城八坂神社の分霊を勧請したとされ、
境内には猿田彦大神の碑もある。 


肥前の狛犬♂


肥前の狛犬♀

   
 鳥栖まちつくり推進センター前の広場で
いつもの美味しいお弁当!

 
   
轟木宿と田代宿への分岐点 
追分石

田代外町の追分石は田代宿の西構口となり、
ここから久留米街道が分かれている。

文化2年(1805年)に書かれた亀井南山の
「小春紀行」に「石表あり、右さか、左くるめ道
とあり」と記されている。

 
   
 
田代宿の地図

分岐点 雨子川 

田代宿は、対馬藩の飛び地だった田代領の宿場で、昌元寺町、新町、上町、下町、外町の
五町からなっていた。北東の出入口には日田彦山道へ分かれる道しるべとして
追分石が置かれ、外町には久留米道へ分かれる追分石が置かれていた。

対馬藩が朝鮮貿易で入手した「朝鮮人参」や薬の製法などにより、主要産業の1つとして
「肥前田代の入れ薬」配置売薬業が発展した。

その後、越中富山、奈良大和、滋賀近江と並ぶ日本4大配置売薬として
今日に至るまで全国にその名をはせている


伝・代官所通用門(対馬藩主宗氏の家紋が残る)


ボランティアガイド 長さんの家門と
対馬藩主宗氏の家紋は同じ家紋

長さんの名札
   
 
藩校の東明館

手書きの蛭子像 
 
 
田代には有名なお寺が並んでいる

 
いざ戦の時の集結場所となる。

 
代官所跡の看板
田代宿の追分石「右ひこさん左こくら」 とある

 

田代には浄土真宗のお寺が多くあった

 

田代八坂神社

 

『田代売薬』と呼ばれたそのくすり産業が、なぜ田代の地で生まれたのかというと、
田代が交通の要衝であり、宿場町でもあったこと、対馬本藩から離れていたこと、

先に売薬を始めていた富山の売薬人たちが田代へも行商へ入っていたことなどから、
往来する人や物から豊富な情報や技術を得たり、代官による統治の統制力の緩さも
あったり、富山売薬の実績を認識していたりと、いくつかの要因が絡み合って、

商人や農村以外に住む者たちの意識が売薬へと傾いていくこととなった。
田代を出て、他藩への 田代の一大産業として発展した売薬、
そのノウハウは久光製薬に受け継がれて全国へ。そして、世界へと…


 頻発をしていた熊本地震の余震も無く、正午頃から小雨が降ってきましたが
この度も長崎街道轟木、田代を探検出来 有意義な一日を過ごす事が出来ました。

元気でいる事を心掛け、また次会の探検を楽しみにしています。

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