鯛生金山の盛衰

鯛生金山は、矢部村の東、竹原峠を越えた大 分県日田郡中津江村から矢部村の八知山に広 がっていた。

一時期は、産金量、施設、設備ともに東洋一 を誇る大金山と言われていたが、戦時中は鉱山 整理のため衰えた。戦後、住友鉱業株式会社の 手により再び昔日の隆盛を見たが、産金量の減 少により昭和四十五年に休山し、四十七年には 遂に閉山の止むなきに至ったのである。

現在は、大分県中津江村営地底博物館として 坑道や施設の一部が保存され、県内外からの観 光客で賑わっている。

矢部側の坑口は、長い間閉鎖され、雑草の生 い茂った檪林の中に「垂楊萬々条」と書かれた 坑口跡が、わずかに当時の面影を偲ばせていた が、最近ようやく整備され、坑内では冷涼な温 ・湿度と清冽な水を利用して「えのきだけ」の 栽培が行われている。

鯛生金山のおこり

鯛生金山坑口

鯛生金山坑口(中津江村)

鯛生に金鉱石が発見されたのは、日清戦争の ころというから、今から約九十七年ほど前のこ とである。八女郡星野村からやってきた行商人 が、金山橋のところの川を渡っているとき、偶 然に金鉱石を発見したのがその起こりという。 星野金山の金鉱石とよく似ていたので、このこ とを星野村に伝え、それを聞いた鹿児島県の山 師が調査に乗り出し、良質の金鉱脈であること がわかった。

一方、鯛生の素封家田島勝太郎が熊本中学に 在学中、夏季休暇の宿題に採集した鉱石を提出 したところ、専門家の鑑定によって良質の金鉱 石であることが証明された。田島は帰省して父 君儀市に話したところ、儀市は当時金山を経営 していた鹿児島県の事業家と共同で金山経営に 乗り出したということである。

当時の金山の様子

その頃の採鉱は手掘りで、数本のノミと金槌 で鉱脈に穴を穿ち、火薬を装填して爆破し、ツ ルハシで掘り起こしていた。鉱石をテゴという 手伝いの若者にシキダツという背負篭に背負わ せて選鉱場に運んでいた。
鉱山搬出風景 垂揚万々條

鉱山搬出風景

垂楊万々條

ドベユリ 水車小屋風景

ドベユリ

水車小屋風景


深い坑内には、切り梯子という丸太に段々を 刻みつけた一本の梯子で上り下りする。
選鉱場 では選鉱夫が鉱石を選別し、金の含有量の多寡(たか) を選り分けて小さく打ち砕き、鉱石運搬用のダ ツという朝顔型の高さ一メートル余りの篭で水 車場に運ぶ。

そこには、直径四メートルもの大きな水車が いくつもあり、三〜四丁の杵が交互に臼の中の 鉱石を砕いている。搗鉱婦が時々臼の中に鉱石 を投入し、水銀を少量そそぎ込む。水銀に付着 した金粒が臼の底に沈澱するしかけである。次 に金ゆり場に運ばれた金鉱石を土ゆべりという 人夫が直径一メートル、深さ二十センチの楠の 木で作ったゆり鉢でゆする。この作業を繰り返 していると、鉢の底に水銀巻の金が溜まるので ある。さらに、それを鹿のなめし皮に包み、水 銀しぼり機にかけると、水銀はなめし皮を通っ て流れ出し、後に水銀巻の金が残るのである。 水車一台で一昼夜稼動して四〜五匁(十五〜十 八・七五グラム)から多い時には、百匁(三百 十五グラム)以上の金が採れたという。金鉱石 四百二十キログラムから水銀巻五〜六匁(十 八・七五〜二十二・五グラム)は採れた計算に なる。水銀巻を竃の中で燃焼すると、水銀は蒸 発して金だけが残るのである。
この方法は、古代から伝えられた金の精練法 で、佐渡などの金山もこのような方法で行われ ていたのであろう。

このような簡単素朴な方法であったから流出 金も多かったため、水車から流れて水溜まりに なった鉱石の土(ドベ)を集めて、これから金 を採集する青化製練法も採用されていた。

水車の数も増え、製練所も第一、第二と設け られて産金量も増加したが、坑内が深くなるに 従って地下水の湧出量も多くなり、その排水は 困難をきわめた。日露戦争以後は、排水に蒸気 ポンプが使用されるようになった。津江川に水 力発電所が設けられ、電力が用いられるように なったのは、明治の末頃であった。また、空気 圧搾による削岩機が使用されだしたのは、大正 四年であった。

外国人経営時代

クラブ H・ハンター氏

クラブ

H・ハンター氏

矢部精錬所 クラブ内部

矢部精錬所

クラブ内部

坑道も深くなり、鉱石の品位も低下したため、 今までのやり方では採算がとれなくなったので、 新しく製練所を設け、大量生産方式により採鉱 製練を始めたのは、大正七年のことであった。 経営者もイギリス人ハンス・ハンターに代わっ た。このイギリス人経営は、大正七年から十四 年までの七年間であった。

その間、イギリス人 はもとより、フランス人、ロシア人、中国人も 技師や労働者として入り込み、言語、風俗習慣、 住居や飲食物も国際色豊かであったという。

この期間の金産出量は三トンであった。

鯛生金山の全盛時代

大正十四年六月から金山の経営は、木村瞭之 助の手に移り、以後昭和十五年六月までの十五 年間が、鯛生金山の全盛時代である。

年産出量二トン半という東洋一の金鉱山とな り、従業員数約三千人、家族を含めると実に一 万人以上に達し、山間の峡谷は一大市街地に変 貌し、殷賑をきわめたのである。
インクライン(矢部) 金山黒木出張所

インクライン(矢部)

金山黒木出張所

戦時下の鯛生金山

昭和十六年から十八年までは、ラサ鉱業株式 会社の経営となった。日中戦争から太平洋戦争 に突入すると、従業員の中にも応召出征する者 が増え、産金量も漸減していった。そういう中 で、昭和十八年四月、鉱山整理令が出され、鯛 生金山も施設、設備の撤去を命ぜられた。こう して毎日三千トンの鉱石を処理していた鯛生、 矢部の両精製所も次々に取りこわされ、コンク リートの礎石だけが残されるに至ったのである。

戦後の鯛生金山

鉱床図

鉱床図

坑内排水設備廃置断面図

坑内排水設備廃置断面図

昭和十九年三月、経営は帝国鉱発会社という 国策会社の手に移り、さらに昭和二十四年四月 から新鉱業開発会社の手に委ねられた。その間 は、優良保鉱金山として、従業員四十余名でわ ずかにその命脈を保っているに過ぎなかったの である。

日本も復興の兆しが見え始めた昭和三十一年 十月一日、住友金属工業株式会社の経営となり、 数億円の投資によって製練所が建設され、四年 後の昭和三十五年十一月十五日に竣工、落成式 を迎え、再び操業を開始したのである。

日産二百トン余りの鉱石を処理し、金泥青化 精練法を導入して約二年にして約一・五トンの 金の産出量をあげた。

鉱区は二十鉱区、面積約四七七・二一六アー ル、試掘坑三鉱区で、一八・二九六アール、そ の他砂鉱区が二つあった。

坑内は、鯛生坑口のレベルから竪坑の深さ六 百メートル、坑道の総延長は百十キロメートル に及び、鯛生口から矢部坑口の間には、縦横に 坑道が張りめぐらされていた。

鉱区内には、製練所、インクライン、クラッ シャー、コンプレッサー、ベルトコンベアー、 鉱石分析所、工作機械工場、変電所などの施設 のほか、事務所、医療所、接待館、日用品販売 所、社員クラブ、社員および鉱員社宅や鉱員寮 などの設備も整い、村の街道筋には、映画館、 旅館、飲食店やバー、遊戯場などが軒を並べ、 活気あふれる町が再現した。当時の賑やかな様 子を懐かしむ古老も多い。

しかし、鉱脈も次第に掘り尽くされ、金の産 出量が減少して経営が困難になり、昭和四十五 年には休山のやむなきに至り、隆盛をきわめた 鯛生金山も、昭和四十七年に遂に閉山し、約百 年の歴史を閉じたのである。

閉山とともに、殷賑(いんしん)をきわめた矢部村、中津 江村も急にさびれ、かつての製練所、インクラ イン、事務所、住宅、売店など次々に姿を消し、 矢部八知山の坑口も閉鎖され、もとの静かな村 に帰っていったのである。