日向神ダム

日向神ダムの建設

日向神ダムの桜

普段は静かで、清澄な水をたたえて楚々とし て流れる矢部川も、谷が深く急流なため、一旦 暴れ出すと手のつけられない暴れ川となる。昔 から矢部川流域に大きな水害をもたらし、流域 住民を悩ませてきた。

記録によると、延宝元年(一六七三)明治三 十八年(一九〇五)大正十年(一九二一)の水 害は大きかったが、中でも昭和二十八年(一九 五三)の大水害は、記憶もまだ生々しく、堤防 の決潰、田畑の冠水、流失、民家の流失、浸水、 道路、橋梁の流失など、目も当てられない惨状 を呈したのである。

それより先、福岡県では、昭和二十四年に矢 部川流域の総合開発の一環として、洪水防止、 農業用水の確保、発電などを目的に、日向神渓 谷に県下一の多目的ダムの建設を計画し、地元 矢部村にその計画を提示した。

矢部村民にとっては正に青天の霹靂であった。 永年住み慣れた土地を追われるという不安から、 「先祖伝来の土地を守れ」「矢部の自然と住民 の生活を守れ」という利害を抜きにした切実な 住民感情が圧倒的で、ダム建設反対の住民運動 が起こった。

そのような反対運動があったにもかかわらず、 県は水没地帯の地権者との補償問題や移転先な どについて度々接渉を繰り返した。昭和三十年 には村民大会が開かれ、大論議の末、「補償次 第では、ダム建設の同意も止むを得ない」とい う意見が大勢を占めたのである。

ダム水没前の笹又地区


昭和三十一年の補償審議会で補償基準が設け られ、翌年には約八○パーセントの関係者が同 意した。しかし、残り二〇パーセントは、なお 反対し続けた。理由として「移転先に誠意を示 せ」「いくら公共事業といっても移転先の保障 もないのでは、進んで犠牲になる気はしない」 という条件論や「先祖から住みなれた土地を永 遠に失いたくない」という絶対論があった。

当時はまだダム建設反対運動のモデル的なも のも少なく、反対運動を盛り上げる強力な指導 者と組織力がなかったのであろう。

こうして昭和三十二年には、遂にダム建設工 事が着工された。

以来完成までの三年間、道路の付け替え工事、 トンネルの開削、ダム堰堤工事などダイナマイ トの爆発音が山峡にこだまし、ブルドーザーや ダンプカーが唸りを立て続けたのである。また 小学校や民家の移転も相次ぎ、住民はダム周辺 の土地や村外に移っていった。

こうして昭和三十五年、総工費二十八億七千 七百万円、補償費五億四千三百万円、ダム建設 工事犠牲者四人を出して、ダムは完成した。昭 和三十七年には残り百八世帯六百九十三名も立 ち退き、ダムは満水し、操業を開始した。

日向神ダムは、洪水調節、農工業用水、発電 と下流域住民に多大の恩恵をもたらしたが、皮 肉にも矢部村にとっては、耕地の減少や人口の 流出をもたらし、過疎化に拍車をかけることに なった。また、日向神渓谷の景観も大きく損わ れ、蹴洞岩を中心とする奥日向神の景勝地を訪 れる観光客も少なくなってしまった。

ダム建設当時、県道(昭和五十七年国道四四 二号に昇格)沿いに植えられた千本の桜は、三 十年を経て四月の満開期には満々と湛えられた 湖水と周囲の杉木立に映えて、訪れる人々に息 を呑ませる美しさを見せてくれる。しかし、日 向神ダムが矢部村の人々にもたらした精神的、 経済的な影響は少なくない。渇水期になると湖 底の村が現れ、住居跡や道路、橋などの名残り がわびしさを誘うのである。

国策、公共事業とはいえ、日向神ダムは矢部 村に何を残したのであろうか……。

日向神ダムの概要

日向神ダムの概要