懐良親王の終焉
建徳元年(応安3、1370)足利義満は、北朝勢力の回復をめざし今川了俊(=貞世)を九州探題に任命しました。
応安5年、大宰府を攻撃しました。中央における吉野南朝の壊滅によって大勢は一変し、宮方の昔日の威勢
はなく、懐良親王は、武光とともに高良山へ退き抵抗しました。
文中元年(応安6、1372)大宰府は陥落します。征西府12年にわたる九州支配が終わりました。
今川軍は着々と歩を進め、文中3年高良山のふもと一帯で激戦が続けられ、4月筑後川を渡って福童原で激戦
となりました。「福童原の戦い」です。今川大軍の来攻で、文中3年(1374)10月宮方は高良山を放棄しました。
懐良親王は従者を引具して水縄連山を峰伝いに越えて、天授3年(1377)4月八女郡星野村へ落去され星野の
天嶮に拠られた。
大円寺(星野御所)にはいられた。
毘沙門嶽城
弘和3年(永徳3、1383)3月27日、55歳で死去された。
天授元年(永和元年、1375)には征西将軍職を良永親王に譲っておられる。