懐良親王にまつわる伝説

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将軍梅

宮の陣町

懐良親王は、菊池武光らとともに、少弐、大友軍と拮抗、

筑後川を渡り、阿弥陀如来を祭り、紅梅を手植えしたと

という故事による。
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遍万寺

宮の陣町

菊池一族の正西法師(菊池武邦)が開山されたお寺で

、筑後川の戦いで戦死された将軍の宮(懐良親王)及

び戦没戦士の冥福を祈り建立されたお寺。
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五万騎塚

宮の陣町

南朝側には、肥後の菊池一門、筑後の五条一統が征西

将軍懐良親王を擁して高良山に陣取り、一方、光明天

皇を立てた足利尊氏の北朝側は筑前大宰府の少弐、豊

後の大友を主力にして味坂一帯に布陣して拮抗した。

正平14年(1359)8月、宮の陣から現在の小郡市一帯

で激戦が展開された。

 この戦で双方とも膨大な数の戦死者を出し、田んぼ

や溝に死体が散乱した。これを見かねた高良山の僧侶

たちが死体を一箇所に集め、大きな塚を築いて供養した。
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一本杉

太郎原町

大原の戦いで、懐良親王は高良山に転進したが、村人

は合戦で死んだ武士たちを悼んで塚を築き、塚の前に

一本の杉を植えた。太郎原の一本杉と言って親しまれ

ていたが、昭和31年の台風で倒れた。
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平礼石

山本町

大原の合戦で、懐良親王は身に3ヶ所の深手を負い山本

の地で亡くなったが、悲しんだ家来や山本の住人たちは

、千光寺の山の上に墓を築いて供養した。寺下を通ると

きも石の上に座ってお参りしたという。その石は平礼石

と呼ばれている。
毘沙門嶽.jpg 勝ち水

福童原の合戦に敗れた懐良親王の軍勢は、高良山に陣取

って勢力挽回を期したが、今川了俊に攻め立てられ800人

ほどが討ち死にをした。

わずか12才の賀々丸(菊池武朝)を侍大将に最後の合戦を迫

られた親王は、菊池一族と残党を集め、毘沙門嶽の奥の湧

き出る清水で別れの水杯を交わした。そのとき、どうした

ことか、十重二十重に高良山を包囲していた敵勢がいちど

きに引き上げ始めた。

 親王は、これこそ毘沙門天の仏力と感謝し、水杯にくん

だ清水を勝ち水と呼ぶようになった。
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親王の墓

山本町

懐良親王は、村人にとってたいそう優しく親切だったので

、親王が大原の合戦で深手を負って亡くなったときは村中

嘆き悲しんだ。千光寺に塚を築いたものの足利勢が盛り返

してきたので、発見されるのをおそれ墓のすぐ下に供養塔

を立ててカムフラージュした。

文献 久留米市史第五巻

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