南朝方の九州制覇
九州の武家方は、一色範氏を中心とする探題方と、足利直冬を立てる「佐殿」方に二分され、さらに懐良親王を
擁立する菊池氏らの宮方とがからんで三分の形勢となり、これらはめまぐるしい離合集散をくりかえしていました。
宮方(南朝)と少弐、大友らの武家方(北朝)とは複雑多岐な抗争時代になり、筑紫の内乱は泥沼の様相を深め
長期化しました。
正平7年(文和元年、1352)11月には宮方・探題の連合作戦により直冬、少弐頼尚は拠点大宰府を追われ、筑後
地方も占領されました。
こうして宮方(征西将軍懐良親王)の勢力が成長して菊池、阿蘇両氏を中心に肥後から筑後に進出しました。菊池氏
の棟梁は武重の孫武光でした。
高良山に来たのは、正平8年(文和2、1353)でした。
正平14(延文4、1359)年、武家方少弐頼尚は大友氏時と連合して宮方挟撃策に出たので、征西将軍懐良親王を奉じた
菊池武光は7月四万の兵をひきいて筑後平野に進出し、筑後川を前に高良山・柳坂・水縄の三ヶ所に布陣、征西将軍
の本営を筑後国府枝光に置きました。
少弐頼尚はゆかりの一族の武士松浦党、龍造寺氏など六万で味坂に布陣しました。
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7月19日夜、武光は精兵五千を指揮し、月明かりを利用してひそかに筑後川を渡り、北野に進出、味坂の少弐軍を急襲
しました。懐良親王は(宮の陣)宮瀬を本営としました。
こうして三井郡一帯の平原で戦いがつづき、8月7日、大原(山隈原、大保原、小郡原)で激戦になりました。
この戦いが日本三大合戦のひとつ、筑後川の戦いまたは大原合戦と言われています。
少弐軍は敗色濃く、大混乱となり大宰府にひきあげました。
南軍の損害も大きく、そのまま大宰府へ進撃することは出来ませんでした。
総大将懐良親王も歩卒とともに敵陣に斬り込みその身に深手を負っていたのです。
懐良親王は高良山の北麓千光寺そばの谷山城にひきあげられ傷の手当てと休養をされている。
翌年4月、菊池武光は懐良親王を奉じ、大宰府へ進出。正平16年(1361)大宰府を征西府として本拠地と
しました。
南朝勢力の全盛時代が到来しました。
菊池武光らが筑後川を渡った場所