七、旧蹟

朝妻

 南筑高校に隣接する警察官舎一帯は、昔は松林であった。そこには高良神社御神幸の頓宮があった。別名お仮屋といって御神幸の時、旗崎池より神道(深道)を通り、このお仮屋で一泊して高良山へ御戻りになったのである。高良神社の御神幸は、古く称徳天皇の神護景雲元年(767)10月に天皇自らの裁断によって行われてから恒例となり、大宰府から勅使が派遣され、筑後はおろか九州一円の国司、郡司が集まってきてその葬儀をとり行った。即ち少貳、大友、菊地、島津の4家が祭儀をつかさどり、当社に属する120士と国中36士、供奉の者千余人が参加するその有様は、壮観で当時には稀にみる大祭事であったという。(「三井めぐり」より)しかしその後、国が乱れ、権力を握る者も相次いで移り変わってゆく歴史の流れの中にあって、久しく中断していたが、久留米藩第六代藩主有馬則維公はその廃絶することを惜しんで3年に一度の御神幸として再興を計った。話を朝妻に戻そう。かっては久留米の中核をなした御井戸の町、御井町が三つの泉を意味する三井郡の一角であったことは知られている。

夏草や 朝妻越えて 昼支度   青木繁 

高良山の麓、国道210号線ぎわにつきることなくこんこんと湧き出る朝妻の清水は昔は郷土の文人墨客の間にもてはやされた三井三名泉(この朝妻と山川町安国寺の金剛泉、松崎の泉をいう)の一つで徳川中期の国学者北村季吟も、その中の一人であった。

夏としも 知らずでぞ掬ぶ 朝妻や 岩根の水の清き流れを

また、高良大社の末社で、清水の湧き出る池のほとりにひっそりと建つ味清水御井神社は、通称「しっちゃらごんげんさん」といわれて親しまれているが、古今を問わず涼を求めて訪れる人の数は多い。
 戦前の朝妻の清水は、お潮井とり、神事に従う際の「みそぎ」の場であり、女人、子供はもちろん、特定の人以外は玉垣の内には立ち入れない聖域であった。四十年振り(昭和六十年六月一日)に復活された高良大社の祭事「へこかき祭り」でも参拝者はここでみそぎをし、高良大社への途についた。またお潮井、みそぎの場としては、境内の石造物のいくつかに名を残している。

恵利八幡宮

恵利八幡宮(浮羽郡田主丸町)

竹野郡慧利村(現在田主丸町恵利)神課中十四軒の人々も深いかかわりを持っている。
 今でも八月七日、恵利八幡宮夏祭りの早朝、朝妻の清水でみそぎをし、お潮井を持ち帰る慣習がある。恵利八幡宮神宮、篠原五百入氏(没)の明治九年の記録によると

「御井郡於朝妻潮井ヲトリ、其水神社□御酒、御食献備座神座仕爾リ、帰リテ、末社潮井ヲ御納......この事は、古老の伝えるところなり.....」と記されている。

 この事から推しても、七社権現の奥の院の前に狛犬を献納した文化三年(1806)には、恵利神課中の人々の高良玉垂宮に対する信仰はかなりのもりあがりを見せていたと考えられる。そして百数十年の時を経た現在でもなお、恵利の人々によって引き継がれているのである。その関係の密なるしるしの一つに、境内に「恵利分」という土地を所有していたという。恵利の人々の七社権現、さらに高良神社への信仰心の深さに対して与えられたものであったであろうが、今はその土地もなく事実を証明するものは何もない。
 この清水には発生にまつわる興味深い伝説がある。

「現代の語り部」にも記したが、はるかな昔、神功皇后が宇美から高良大社へ 皇子誕生(後の応仁天皇)のお礼参拝の途上、朝妻のあたりで渇きをおぼえられ、 水を所望された。共のものが矢尻であしの茂みをつつくと、清水が湧き出、その水の おいしさに、いたく満足されたという。これは単に伝説、神話の一つだとしても、 古代へのロマンを誘う話である。

味清水御井神社

味清水御井神社

 七社権現の「よど」は、以前のような賑わいはないが、今も八月七日に行われている。その昔、氏子達はお籠をし手桶に汲んだ清水を家の門々にまいて無病息災を祈る。日照が続いて作物に影響がでそうな年など、雨乞いのために遠方からもお水をいただきに来ていたということである。昭和二十五年頃までは境内に夜店がたち並び舞台がかかった。宵ともなれば近郷近在から老若男女が参拝し、名物「二丁つづきのトコロテン」を食べ、旅役者の芝居見物が娯楽の少なかった当時の楽しみだった。

朝妻焼窯跡

 所在地は合川町。久留米大学商学部の南西の角、福聚寺の南にあたる。今は、荒れるままに放置され、面影もないが、わずかに窯跡らしい上壁部がみえる。昭和九年、篠原正一著「三井めぐり」に、福岡県が設置した掲示板の写しが記されているが、その表示板も今は見当たらない


朝妻焼窯跡
正徳四年(1714)、久留米藩主有馬則維御井町隈山附近に於て陶窯を設けしめ上妻郡釋形窯陶工をして之を経営せしむ。後更に有田及伊万里より陶工及絵師を舳し肥後天草石を採り赤絵青華及白紬の皿鉢茶碗等陶磁器を製造せしめ享保十三年(1728)迄約十五年間継続せり。当時の陶窯殆んど消滅せりと雖も此地(三井郡合川村大字合川枝光区の福聚寺略南二町余)に約四間に十数間の遺跡を認め得べく附近には陶磁器の破片多く土中に埋没し往々発見せらる。朝妻焼の器底には多くは呉須を以て「朝」字を記せり
   昭和八年三月        福岡県

朝妻焼釜跡

朝妻焼釜跡

 朝妻焼は城下の問屋皿屋市郎右衛門、竹屋太左衛門によって売られていた。原料の石は天草より海上輸送で瀬の下に送り、朝妻まで運ばれていたようだ。天草の石は、有田泉山にくらべるとくせがなく薄く焼く事ができ、素地も純白に近いものになった。

朝妻焼(ハ マ)

朝妻焼(ハ マ)

 朝妻焼が御庭焼でなく、一般に使用される日用品であったために取扱いにも不注意を免れなかったので現存するものが少ない。特に赤絵は稀少である。
 明治三十三年、皇太子(後の大正天皇)が久留米に来られて、三井郡合川村市の上の有馬家別邸に宿泊された折、三井郡長によって、呉須胡蝶の絵染朝妻焼水差し一個が献上された。
 さて制作期間が短く従って製品個数が少ない朝妻焼きであるが、昭和57年発行『久留米市史、第二巻』によると、最近の発掘調査の結果、朝妻焼きの年代を再考させられる出土物があった。朝妻焼き磁片の出土地は、下見遺跡(東合川)祇園山(御井)大善寺玉垂宮境内等であるが、そのひとつ、下見遺跡より数十点の破片が出土し、それによると、朝妻焼の操業期間が十四、五年にとどまらずもっと長期にわたると考えられるということである。今後の調査結果が待たれる。

朝妻三勇士記念館

三勇士

三勇士記念館

今は跡かたもなく、僅かに写真で往時を偲ぶばかりであるが、この記念館は朝妻工兵第十八大隊にあった。終戦時にはそれまで宝物のように扱われて飾られてあった数々の記念の品々が、一転して焼き棄てられる事なり、それに心を痛め人の手によって、僅か一部が永福寺や千光寺(山本町)におさめらにれている。永福寺にはその額縁がある。

敵の塹に 一気になだれ入りし 犠牲勇猛を われも泣かざらめやも


斎藤茂吉

磐井鎔鉄所

磐井鎔鉄所の祠

磐井鎔鉄所の祠

 久留米藩は幕末になり増大する鉄の需要に応じるために、当時考古学者として名を成していた矢野一貞を開物方加役奥通りに任じた。製鉄には原料の砂鉄、水、木炭が必要であった。この三つを調達できる土地として選ばれたのが岩井川の泉の湧き出る土地であった。砂鉄は浮羽郡田主丸町幸島、三井郡北野町高良の筑後川から採取、水は水量豊かな岩井の湧水、木炭は林業の盛んな高良内から調達したと思われる。元治元年(1864)鎔鉄所は清水に近い平たんな場所に設置された。それを記念して石祠がたてられていたが、現在では「動乱蜂」で有名な王子宮(山川町)の境内に忘れられたように立っている。

石祠には製鉄業の重要さを碑文に刻み、功労のあった人々の名が残されている。 (『郷土研究、創刊号』古賀寿氏著より) 御用掛 志茂川喜一郎兼貞     黒岩段次郎清風 奉行 矢野幸太夫一貞 御用掛 赤司万蔵重治 唐島大農長 永松吉三郎氏孝 石祠の中の棚には鉱石がおさめ られ、その棚の下から一枚の木札 がみつかった。裏面には 元治二年乙丑  春三月十五日 砂鉄熔製 創業特命 赤司万蔵 敬白(花押)

たたら残滓

たたら製造残滓(岩井川床より採取)

 このことは資料のきわめて少ない磐井川熔鉄所に実証性を与ている。
江戸時代の製鉄は砂鉄を製錬する「たたら吹き」であった。鉄の採取には、露天掘りの鉄穴掘りに代って、今でいう一種の比重選鉱法がとられた。花崗岩(風化したもの)と水とを混合せ、沈澱した砂鉄を取り出す方法である。
岩井川の川底からも「たたら製鉄」の残滓を収集することができるが、この熔鉄所の規模や製品の種類は全く判っていない。下町の大鍋屋の先祖が小学校の裏あたりで鉄鍋の製造をしていたというが、これは磐井熔鉄所の鉄で鍋を作っていたとも考えられるが推量の域を出ない。
 ところで「たたら製鉄」とはどういうものであろうか。「たたら製鉄」には鋼を得る鍋押し法と、銑を得る銑押し法があり、前者は真砂を原料に三昼夜、後者は赤目を原料に四昼夜にわたって「たたら吹き」を行ない、これを一代とよんだ。粘土で作った高さ三尺、長さ六尺ほどの炉の中に約三十分毎に木炭と砂鉄の装入を操り返し、天びんふいごを絶えまなく踏んで空気を送る。製鉄所には「金子屋神」が必ずまつられていた。
 一切の作業を指揮する人を村気、村気の補佐役で炭の吟味をする炭坂炭焚き、天びんふいごを踏む番子とよばれる人達が作業をした。
 「たたら吹き」が終ると、炉をこわしてヒ塊を引き出し、銑池で冷却する。このヒ塊を打ちくだいて良質の鋼が選別され、残りのくずがねや炉前に流れ出た鉄もそれぞれ用途に向けられた。「たたら」も古来からあった単なる露天のものから、家屋を構築して炉を設置したものに変わってゆく。

隈山

隈山

隈山を望む

 御井町の西側に位置し南北に長く連なり高良山を一望できる高台が隈山である。隈山は昔、山全体が墓地であった。しかし時の流れとともに神聖な場所であるべきこの土地にも開発の手がいれられ、無数にあったと思われる墓石なども、朝妻と矢取にほんの一部を残すだけとなってしまった。
 真藤ミチョ著、『初手物語』によると、子供の頃の隈山は、草花が咲き乱れ、野いちご本いちごも実り、櫨畑ではほととぎすが賑やかに鳴いていたという。この墓地には御井町ゆかりの偉人も数多く葬られている。 その中から数基拾いあげてみることにしよう。中でも苔むして古い年代を感じさせられる自然石の板碑が目につくがそれに彫られた文字は、


慶安元戊子年 十一月十五日 迂修権大僧都大越 家玄忠法印

その横のひときわ高い地蔵菩薩は、寛政四壬子年(1792)三月に御城内七ヶ所の施主の連名で寄進されたものであり、本願主は千手院阿閣梨法卯快宥となっている。この千手院は、府中にあって修験道禁止令によって廃寺となった千手院極楽寺とみなされる。
(この章、「源正寺」参照)

今村竹堂の墓

『久留米人物誌』によってその人となりを知ることができる。

宝暦十三年(1763)十二月八日、府中駅(現御井町)に出生、父は三原義知、幼名は忠次郎、名は温知、直内といった。号は竹堂、長じて高山畏斉に師事して高弟となり、畏斉の没後、その遺命に従って京都の西依成斉に師事した。学成って帰国し、上妻郡新庄村に家塾「会補堂」を起し程朱の学を授けると学徒四方より来り学んだ。男子なく三女のみ、その一女は医師清水潜龍に嫁した。すなわち古松簡二(蕉窓)の母、一女は儒者井上彦一に嫁した。すなわち池尻茂四郎(贈従五位)の母、竹堂は 文化二年(1805)三月二十一日没 享年四三才

木村重任の墓と彼の永年の功績をたたえた石碑


今村竹堂の墓

今村竹堂の墓

木村重任は明治六年四月から同十七年十二月亡くなるまでの十一年九ヶ月高良大社宮司を勤めた。彼も幕末から明治にかけて波乱万丈の生涯を送った人物の一人である。

文化十四年(1817)二月十八日、京町に出生。通称は三郎、号は赤村。天保九年、江戸の昌平学に入り、その傍ら村崎慊堂に学んだ。 同十二年、東海、東山、北越地方を旅し、水戸で会沢伯民、藤田東湖に親しく接して水戸学の教を受けた。帰国後に明善堂助教任命、弘化三年、馬廻組に列し、翌年郡奉行となった。
この頃、三潴郡掛赤村に居住し号を赤村と称し、私塾「日新社」を開いて近郷の子弟を教育した。嘉永五年三月、真木和泉守、水野正名らと共に、藩政改革、人事刷新の上申書を呈上し、執政有馬河内、参政有馬豊前、不破孫一らの時の執政層に反撃され、五月十七日、稲次因幡(正訓)、水野丹後(正名)、木村三郎、真木和泉の四人は特に重く処罰されて無期禁獄となり、他の同志もすべて罪を得た。
俗に嘉永の大獄といわれ、天保学派(水戸学)の者は政治の要路から封じ込まれてしまった。かくして幽囚の身となること十二年後、中山忠光卿、津和野藩主の周旋によって文久三年五月に解囚され、八月には藩命によって京に上り、御親兵隊長となり、ついで同月十五日、学習院御用掛徴士となった。
しかしまだ日もない八月十八日、大和行幸中止、長州藩の堺町門守護解除、尊譲派の三条実美以下の七卿が退けられる政変が起こり、七卿は長州に亡命した。この政変により、重任も帰藩の途についたが、その途中の三田尻において池尻茂左衛門(始、号は葛箪)と共に七卿に面接し、意見を具申し、事後の計画を謀って帰藩した。


木村重任の墓

木村重任の墓

すると公武合体派の藩当局によって再び五年間監禁され、慶応三年十一月に解囚された。
明治元年二月、再び馬廻組となり、十九日藩主頼咸の上京に随従した。三月、側物頭に昇進し総督有馬蔵人に従い、参謀として藩兵を率いて関東討征に出発した。四月、大総督府参謀助補。五月、総督府命令で京都に使いし、ここで刑部判事の任命があったが、病のため辞任して帰国した。
明治二年七月、藩主の再度上京に随従し、八月朝廷から徴士に任命され、軍務官権判事となった。明治二年の藩籍奉還により六月十七日、久留米藩が置かれ、旧藩主頼咸が知事となり、大参事に水野正名が就くと十一月には重任は小参事に任ぜられ廃藩時までの藩政をみた。大楽源太郎隠匿に端を発した藩難事件で、大参事水野正名が免官捕縛された後の藩内混乱の収拾、廃藩置県の円滑な進行には中心的行政の役割を果した。
明治四年七月、廃藩置県により三潴県となると三潴県権典事となり、庶務課長を勤めた。
かく木村重任は、真木和泉守、水野正名、池尻茂左衛門などと並んで久留米藩尊王主義者の大先輩であったと共に、王政復古、廃藩置県前後の変動期の久留米治政に於ける中枢的人物であった。
明治六年四月、高良大社宮司兼大講義に任ぜられ明治十年西南の役の際は旧藩人鎮撫の命を受け、その功によって、明治十二年二月二日に恩賞を受けた。明治十五年六月、積年の勤王の功績によって従六位に叙せられた。
明治十七年(一八八四)十二月十日、篠山町の自宅にて没・享年六八才。

(『久留米人物誌』より)

道標と末次四郎

 高良大社まで表参道を登ると、所々に道標がたっている。それは本坂下の十五町まで一町(六十間、およそ一〇八メートル)ごとにたてられており、高さ一メートルほどの石柱である。


道標(三町)

道標(三町)

その起点を示す石柱は御井小学校正門前になかば埋れかけている。「一町」はみつからない。「二町」はトンネルをぬけて放生池へ向う途中に不動明王があるが、その傍に完全な形でたっている。「三町」の石は、藤崎常蔵記念碑近くにあり、「四町」は水明荘裏門の左手、そして池を越えたあたりにあったはずの「五町」は見あたらない。御手洗橋から南谷をのぼり、高良大社前、本坂の石段の下まで、「六町」から「十五町」の標石は保存状態もよく、きちんと残っている。(「第三章石は語る」参照)これらの道標にはすべてに、「大正三年十月十六日、久留米市呉服町、末次四郎」と記されている。『久留米人物誌』によると、末次四郎は長崎、朝鮮、満州で広く活躍した貿易商人とある。
末次四郎の消息については、朝妻の上隈山墓地において、その一端を偲ぶことができる。納骨堂の横に敷地を有し、幾っもの石碑や石塔を建て、それらには末次家の先祖が詳しく記録されている。中には時の総理大臣であった犬養毅の書になるものもふくまれている。

道標(四町)

道標(四町)

ところで、末次四郎についてもっと詳しく語る人がいた。末次家の菩提寺、安養寺の石原シズさん.そして、四郎の娘、シナさん(明治二十五年五月四日生)である。二人の話を総合すると、末次家は府中の庄屋であった。

末次四郎

若き日の末次四郎

 現在、福岡銀行御井町特別出張所の建物あたりから、裏の大谷川まで、その屋敷跡だったということである。まず前庭があり、母家があって、裏側は炊事場になっていた。それから番人一家が住み込んでいた中門があり、蔵が二つあった。その後は畑で、大谷川の側は、竹藪であった。駅制度廃止に伴い、府中の将来への発展性にかげりが生じると、四郎は直ちに通町へ出て、商才を発揮していった。
まず、開港場とよばれていた長崎において貿易を行なった。ついで、朝鮮、満州へも手を伸ばして、海外でも敏腕をふるい、海軍御用達の業者になった。長崎時代に、そこの地方小藩の殿様の一門から妻を娶り、その間にできた娘がシナさんである。
久留米へ戻ってくると、九州中に広く経営網を持つ「久留米運輸会社」を買収して運送業に乗り出し、かつ久留米が軍都となるや、その納入業者となり、商売は時流に乗って順調に大きくなっていった、進取の気性にとみ、奮闘的な四郎であったが、大正四年五月十三日、世にいう「人生半ばにして」没した。享年五十一歳であった。シナさんは遺産を相続するが、金ではなく運輸会社そのものを相続した。当時は女社長ということで有名になった。社長時代のシナさんは心のやすらぎを求めて茶道の門をたたいた。高齢ながら、今や筑後屈指の茶道の先生である。

招魂社

 山川村字旗崎茶臼山に高良山二十六ヶ寺の一つ、東光寺が建立され、天正年間(1537〜1592)第四十四世座主良寛法眼の隆盛時代にはかなり広く知られた由緒ある寺であったが、当時は戦国時代、豊後から勢力を伸ばしてきた大友氏と、肥前の龍造寺氏の両勢力に分かれて反目し合った良寛と麟圭兄第が共に倒れた高良山では、その勢力も徐々に衰退していった。
 明治二年(1869)二月、旧久留米藩主有馬頼咸の命により、その頃久留米の政治の中枢にいた水野正名は、この地に招魂社を建てた。封建制度が崩壊し、明治新政府が成立する過程において時の流れに尊い命をささげた若い人達が真木和泉守以下、まつられたのである。

招魂社(山川町)

招魂社(山川町)

 早くから倒幕の志を持ちながらも神職者であったために藩の政治に直接たずさわる機会のなかった真木和泉守の人望は、幽閉中もなお数多くの若人をひきつけ、彼に従って、江戸、京都へと赴き生死を共にした者も多かった。幕末の久留米藩は、真木和泉守の考えとは相反する幕府支持、公武合体が大半の動向であったので、十代藩主頼永の死後は長く水田天満宮(現筑後市水田)に謹慎させられ、十年の後脱藩すると苦労を重ねて関西において諸藩の尊王援夷の同志と行動を共にする。
 そして幕末の数々の歴史的事件の渦中にいた和泉守と、彼を慕い従ってきた久留米出身の若者達もついに元治元年(一八六四)七月、禁門の変の責めを負い、大阪天王山にて自ら命を断つのであった。(第三章「石は語る」招魂社参照。それぞれの墓石に氏名、年令、死亡した土地名などがみられる)なお真木和泉守と並んで建てられている中央の墓は、佐々金平真成。彼は勤皇の志士であった。慶応四年(一八六八)久留米藩の参政不破美作襲撃事件の首謀者であり、また維新後編成された「応変隊」の設立に意見書を提出し、その編成の任にあたった人物である。戊辰戦争で明治二年、箱館追討に応変隊の一小隊を率いて参戦し、激戦の末戦死している。
(「石は語る」佐々金平真成石碑々文参照 さらにその隣に稲次因幡正訓の墓がある。稲次家は享保の農民一揆解決に尽力した久留米藩家老稲次因幡正誠の家系であった。農民一揆が事なきを得て無事おさまったにもかかわらず、正誠は禄を召し上げられ、国境の辺境の地(現小郡市)に蟄居を申し渡され、若くして非業の死をとげ、家系が断えてしまっていたが、十代藩主頼永は正誠の業績を高く評価し、名誉を回復して家名を興させるため、水野正芳の三男(長兄は正名)泰之進に禄千石を与え、稲次家を継がせたのだった。
正訓は真木和泉守、木村重任らと志を共にする進歩的な青年であったが、彼もまた名君としての誉れのたかかった頼永の死後、後継者問題がこじれて起った事件(嘉永の大獄)に関わったかどで厳罰に処され、二十五歳の若さで没するのである。招魂社は、維新前後の数々の戦役の死者が多数葬られている。慶応三年、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還をしたが、あくまでも幕府を擁護しようとする旧幕府側の勢力を追討するという大義のもとで戊辰戦争がはじまった。久留米藩からも木村重任らに率いられて総勢三五三名が奥州(現東北地方)、箱館へと向い、惜しくも命を落した者をこの地に祭祠した。また、佐賀の乱の戦死者の墓は、ひときわ大きく大理石で建てられていて人目を引く。長い年月風雨にさらされ、さすがの大理石も黒く汚れてはいるが……。
 当時、明治政府より任命された佐賀県権令(今の県知事にあたる)岩村高俊の記録によると、佐賀県全域が戦場と化し、江藤新平らの激しい攻防にあい政府軍は筑後川をわれがちに渡り、府中まで逃げてきたとある。事は明治六年、西郷隆盛、板垣退助が強硬に押しすすめようと主張した「征韓論」に反対した岩倉具視、大久保利道、木戸孝允らと対立した形ではじまった。佐賀には江藤新平らがいて、征韓論を支持していた。はじめのうちこそ敗走の色濃かった政府軍ではあったが、ついには総力をかたむけて平定した。そして江藤新平は西郷を頼って薩摩へ逃げ、土佐で捕えられ処刑された。享年四十一。
 それから数年の後の明治十年、征韓論に敗れて国元へ帰り、青少年の教育のために私学校を設立していた西郷隆盛であったが、新政府の方針に不信感がつのり、ついに拳兵した。招魂杜の百数十基からなる墓石は、いわゆる西南の役とよばれるその戦争の有様をまざまざと私達に語りかけているようだ。政府軍は有栖川宮熾仁親王を征討総督に擁立して久留米に本営を設立した。その間、田原坂では最大の激戦があり、負傷した兵達は久留米師範学校明善堂に設置されていた久留米病院に次々と運びこまれ、死亡した者は招魂社に葬られたのである。久留米病院開院中の負傷者、(死者)は、次のとおりである。

将校 一五四(一三) 下士 四二五(一五) 卒  二五三四(一三四) 警部 一四(一) 巡査不明(八) 軍夫 一〇(三) (『久留米市史』第三巻より)

西南戦士の墓

西南戦争戦士の墓(招魂社)

 西南戦争は西郷隆盛の鹿児島城山での切腹によって約七ヶ月で終戦となった。最後になったが、招魂社の鳥居をくぐり石段を登ると、明治八年九月に建立された川田剛撰文「高山仲縄祠堂碑」が目にはいる。高山仲縄即ち、彦九郎は上州(群馬県)出身の尊王論者で、当時幕府の弾圧により、久留米櫛原の森可善宅において自刃している。墓は寺町遍照院にあるが、その業績を記念して建てられたものである。 その後招魂社には日清・日露戦争の英霊がまつられ、「爆弾三勇士記念塔」やビルマ戦忠魂碑などが建てられている。 なおさらに石段を登り茶臼山の山頂にでると、そこには明治六年、旧三潴県参事水原久雄の首唱により建てられた、御楯神社がある。例祭は毎年十月二十日、山川、御井の両町の有志、婦人会などにより、とり行なわれる。

筑後軌道

 明治三十六年創立。本社は浮羽郡吉井町であった。はじめは「筑後馬車鉄道株式会社」といい、久留米・吉井間に馬車鉄道をはしらせた。ついで東久留米から久留米市縄手へ、レールを伸ばしていったのである。三十九年には動力を馬から石油発動機に変え、四十年七月、社名を「筑後軌道株式会社」と改めた。支線も次々と延長して師団所在地の国分、筑後川水運との連絡のために、三潴郡鳥飼村白山(今の久留米市内) 大石、(豆津)筑後河岸、大正元年には九鉄久留米駅一現西鉄久留米一へとのばした。大正二年、国分、千本杉間の循環線を敷いた。さらに支線中、三井郡樺目停留所より分岐し、同郡草野町間、大正四年には日田まで開通させた。


筑後軌道

筑後軌道

大正五年からは、市街線の電化を行ない、同八年三月より、七月にかけて、千本杉以西、久留米市街線及び国分、御井両支線を電車に変えて、まさに市民の足となった。馬鉄ではじまった筑後軌道も、大量輸送の必然性から、時代とともに石油発動機車へと切りかわる。 明治三十七年十一月現在で、馬三十五頭、客車十五両、貨車八両という記録がある。石油発動機車も八台そろっていた。しかし市民の足は、便利になった反面、石油発動機車の油煙と悪臭に悩まされ、無煙炭使用の蒸気機関車の登場をみることになるのである。しかしついに大正八年には電化されてしまうのである。

横道遺跡

 昭和六十年九月二十一日、久留米市教育委員会によって、「横道遺跡、第四次調査」の現地説明会が開かれた。この遺跡は、御井町字横道、現在の南筑高校の中庭にある。 横道遺跡は、昭和五十年、五十二年・五十四年の三回にわたってすでに調査が行なわれている。これまでの調査では、この遺跡は縄文時代早期と想定されており、出土した土器には、押型文土器(山形文、楕円文、格子目文)撚糸文土器などがあった。土器の時代差から、少なくとも三回におよぶ縄文人の生活の跡がみられ、この地域が生活の場所として古代から大変適していたことがわかる。
 石器では、石鏃、石槍、磨製石斧、石さじ、磨石などが発見されているが、第四次調査では特に石槍と石斧がまるで柄のついたままのような状態で、二つ並んで出土した。儀式めいた置かれ方という説明があった。この調査によって、上層遺構(平安-鎌倉時代といわれる)はその重要性から、保存されることになり縄文時代包含層の掘り下げが断念されたことは心残りであった。
 縄文時代早期の遺跡として有名な横道遺跡ではあるが、重要なのはむしろ、十世紀中期から十三世紀にかけて存続していたと思われる筑後国の最後の国衙跡としてである。

押型分土器

1.楕円文  2.山形文  3.格子目

押型分土器  

 奈良・平安時代、日本が天皇や一部の貴族に権力があり、中央集権的律令国家とよばれていた頃、福岡地方は、筑前、筑後、豊前の三国に分かれていた。十世紀はじめに記された『延喜式』によると、筑後国は、御井、御原、竹野、生葉、山本、三潴、上妻、下妻、山門、三毛の十郡からなっていた。やや遅れて編纂された『和名抄』には、その政治の中心である国府(国衙)の所在地について、「国府は御井郡に在り」と明記されている。
 旧御井郡の北部に位置する合川町枝光一帯からは、計画的にたてられた大規模な「掘立柱建物群」が多数発見されており、同時に多量の土師器や硯、墨書土器、瓦、輸入陶磁器、施釉陶器などが出土しこの地に国府があったといわれている。
しかしこの国衙遺構群も、十世紀中頃になると突然姿を消す。

横道遺跡

横道遺跡第四次調査 地図(南筑高校内) 

 文献上は十三世紀まで存続しているので、国府の移転があったとみるべきで、市教育委員会の調査では枝光の遺跡から東へ五百メートルほど離れた御井町朝妻遺跡が、その後の国衙跡とみなされており、十世紀中頃より十一世紀後半のものが、発見されている。 そしてその朝妻を見渡せる南側の高台に位置する横道遺跡から十一世紀後半から十三世紀に至る大規模な国衙跡とみられるものが今回発見されたのである。  宮内庁書陵部に『筑後国検交替使実録帳』という史料がある。これは大治五年(1130)から仁治二年(1241)までの約百十年にわたる筑後国内の官衙、寺社などの実情を記録したものである。今回、教育委員会が行なった発掘調査で、この史料と一致するものがみつかれば、全国的に最も新しい時期の国府となり、武家政治が確立される時期まで残存した国府の実態を知る上で貴重な遺跡となるであろう。

田中久重鋳砲所址

 矢取の自衛隊クラブ敷地内に次のような碑文が刻まれた柱状の石碑がある。

田中久重鋳砲所祉 コノ地ハ元治元年、久留米藩が鑓水鋳造所ヲ設立セシ所ニシテ、 田中久重翁が銅八十封度ノ巨砲ヲ製造セシ所ナリ 昭和六年十二月十五日 顕彰会

 寛政十一年(1799)九月十八日、通町七丁目のべっ甲職人田中弥衛門の長男として生まれた久重は、幼名を儀右衛門といった。九歳頃より発明のオをあらわし、十五歳の時、絵絣の組方とその織機を発明して久留米絣の始祖である井上伝女を助けた。その頃、五穀神社の祭礼に人形を水カラクリで動かし、その見事さに「からくり儀右衛門」と呼ばれた。二十七歳の文政七年より各地を遊歴し、からくりの興行を行なっていた。
天保五年(1834)三十六歳の時、「私は発明工夫をもって天下に名を挙げたい」といって、弟弥右衛門に家督をゆずり大阪へ出た。大塩平八郎の乱で家を焼かれ、伏見へ移り住みそこで天文学をおさめ、ついで洛中に移って蘭学の大家である広瀬元恭について、蘭学と西洋理学をおさめた。これより久重の発明工夫は、見せ物の段階から科学技術の段階へと発展してゆくのである。
 種々の発明の中でも、オランダ渡来の気砲の原理を応用し圧搾空気で種油を押し上げ、これに発火させる「無尽燈」は、天保八年頃の発明といわれ、当時の最高の燈火器であった。
 また嘉永三、四年に京都で完成した「万年自鳴鐘」(万年時計)は六面体をなし、正面がスイス製の懐中時計、四面が和時計、残りの一面は暦の文字板で、上部には天体の運行を示す装置があった。これは江戸時代の時計の最高傑作といわれるもので、現在、上野の国立科学博物館に収められている。 嘉永五年(1852)末、五十四歳の時、佐野常民の推挙により佐賀藩の精錬所に入り大砲、汽缶(ボイラー)、汽船、電気などの製作を次から次へと成しとげた。
幕府が佐賀藩に命じて作らせた品川台場の大砲は、久重鋳造の大鉋といわれ、また慶応元年(一八六五)には日本最初の蒸気船「凌風丸」を建造している。

 元治元年(一八六四)、富国強兵を急ぐ久留米藩に懇望され、久留米、佐賀藩交渉の末、月の上半は佐賀にあり、下半は久留米に居て両方兼務することとなった。久重が六十六歳の時である。久留米では御井郡高良内村鎗水に大砲製造所を設けて銃砲を作った。このためであろうか、 この地区は字名を「大銃場」という。そこから、現在「信愛女学院」のある丘へ 大砲の実射訓練をしていた話しが残っている。
 久重は明治六年、七十五歳で東京へ上り、日本で始めて電気工業の工場を 東京市芝区金杉新浜町一番地に建設し、これを経営したが、明治十一年に 工部省へ買いあげられた。後に工場は三井家に譲り渡され、三井家ではこれを 芝浦製作所と改称し、
さらに東京芝浦製作所となり、.今日いうところのTOSHIBAと なったのである。

明治十四年(一八八一)十一月七日没、享年八十三歳。 青山墓地に眠る。

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