八、寺子屋と私塾

 寛政八年(一七六九)久留米二十一万石有馬家の居城、篠山城の大手門の中に藩校ができた明善堂である。
 それまで有馬藩には修道館の吊で藩校があったが、天明八年(一七八八)十二月焼失した後、藩は明善堂という吊で再興した。この藩校再興に尽力したのが樺島石梁である。
 有馬家は代々学問好きの藩主が続いた。ことに七代目の大慈公、有馬頼は和算では世に知られた学者であった。『拾算法』(代数や円の研究)の著者である。
 このような藩校とは別に民間教育機関として寺子屋があった。この時代、江戸、上方では町人を中心とする文化がはなひらき、一方では交通、運輸の発達に伴い商人や一流の文化人、学者が地方へ旅行する機会も多くなり、この人達によって中央の文化が地方へ移入された。このようにして全国の城下町や門前町、農村にも独自の文化がおこり、知的向上が高まっていった。
 このような社会的変化は、これまでの「教育は武士のみ《とする政策では一般の人々を抑えきれない情勢にあった。このため幕府や諸藩は民衆に読み、書き、そろばんの実用的な知識と技能を教え、知的欲求を満足させるとともに、生産性向上をはかる教化政策をとった。この事は両者の相乗効果を生み、寺子屋は全国的に著しく増加する。この時期に府中町、宗崎村、出目村にもいくつかの寺子屋ができた。

年代 開設数
正徳以前(-1715 94
享保-安永(1716-1780) 140
天明−享和(1781-1803) 324
文化−文政(1804-1829) 1.063
天保ー弘化(1830-1847) 2.808
嘉永−慶応(1848-1867) 5.808
明治初期(188-) 1.35

寺子屋開設年代及び推移
(「日本社会民族辞典《より)

 寺子屋がどのような増加傾向をたどるのか正確にはつかめないが、寛政以前、即ち十八世紀までは数百軒であったものが、十九世紀前半のいわゆる化政期には一千を越え、幕末の弘化、嘉永期には三千数百、安政、慶応期には四千を越えるという急速な展開をみせた事が明らかになっている。小規模でしかも興廃の激しい存在形態からみて実際の数はこの数倊と考えられる。

 寺子屋には六、七歳で入り、三、四年、長くとも五年ぐらい通い、基本的な読み、書き、算盤を教えられる。寺子屋の様子を描いたものに手習いの情景が多いのも、寺子屋の最も一般的な教科が習字であった事を示している。

 嘉永七年寅年(一八五四)頃、手習いの手本として使われたものがある。




高良山、府中の様子も合わせて知る事ができる。


高良山詣之事長町通もよ具河有之候得共貴賎親□往来も繁く、よんどころなき挨拶等仕候衆中出会候亭刻限も延引に奈里して裏通より筒河へ出、左の方筑前遠山の霞、和泉村、枝光、市上、神代安国寺、右わ野中、国分其外近郷の桜花情を映し、詩歌の種にも成るべきや
寺子屋の机と硯

寺子屋の机と硯(源正寺)

高良川にしばらく足を休、十三部地蔵 遠ながら拝し朝妻にて口を漱き清き流れに 心の汚を洗度し七社神拝し口に申伝べく 盲おちとかや通しめの松、府中駅、 源正寺、永福寺に立寄又腰を伸し夫より 石の□柄をすぎて蝿丸塚に参り御手洗橋 ほど近く日野資郷の美堂礼ばしてふ 吊も朽ずして登の詠歌迄思出し今更可為一興 長統石登屋らん上及ながら銘々長上下到 候はば一笑〜是よりようやく坂になる

左右六防の家作往々相見大明神 駒の爪跡とかやこの辺にて休み 元三大師へ参り一軒茶屋に天腰を伸し 吸筒の口を開き一盃のどを浸し楚ろ/\ 参塔を巡り玉垂の□一見し神前において 祈念□審蔵観音堂、大日堂、高隆晩鐘 一覧し、上の茶屋に亭銘々弁当をいたし 暖々と休息し四此方の景色を尋ね 持ちたる遠目鏡にて一見し下向道は 子供、女もくたびれ臥河申候間歩行にて 蓮華石を廻り極楽寺へ立寄り暫く致物語 勿論愛宕へ杜参、なお帰道の事は明後日 於先生宅「講談相済候上万々刃伸候也

この手習いの手本には「立田川詣《という詩も載っている。 この種のものを往来物といい、書道と文字を同時に覚えさせる ことを目的としている。手習いの他には修身にあたる「談義《 や女子には遊芸や裁縫などを教えることもあった。このような ものを午前中学んだ。なかには午後二時ぐらいまで勉強するも のもいた。
 寺子屋の先生には町人ばかりではなく、下級武士や浪人もお り、先生を中心に男女別れて座が定められている様子が描かれ ているものが残っており、幕末になるとかなり整った勉学の場 になっていたようだ。
 町人の子弟の教育はこのような寺子屋で終わるだけでなく、 むしろ実際の商業にたずさわる中での躾や実地の訓練の方が重要 であったから、寺子屋を十歳過ぎにはやめて奉公に出すことが多 かった。大きな商家では、こうして集まる丁稚達を厳格な奉公 人の制度の中で教育する力を自ら持っていたのである。
 農家の子弟の場合は、「子供中《の中で、その後は「若者組《 の組織の中で実際の生活のやり方を体験していったものと思われる。
寺子屋は明治維新後、小学校の設置によって消滅する。 次に府中における寺子屋の実態は、どのようになっていたの であろうか。

源正寺の寺子屋

 源正寺が寺子屋をしていたことを知る人は少ない。府中における中心的な寺子屋を証明するものとして、机、教科書、硯等が保存されている。その机の裏には「天保癸卯仲夏((一八四三)法種山太恵《と記してある。古めかしい杉板の約百四十年の歳月を経た文机である。この種の机は数十台あったが、現存されているのはこの一台だけという事である。(前頁写真参照)その上にある大きな硯は、先生であった和尚さん達が代々使用していたもので、その他に手習いの本、「幕末《を感じさせるアルファベットの落書き、(写真参照)和漢書、右端の本箱には、(表)「康煕辞典《(裏) 「天保三龍集壬辰初夏、購之六帙四十冊《とある。それらのものから、当時の様子や、そこに住む人々の生活が、彷彿としてくる。

宗崎の寺子屋

落書き教科書

落書きも見られる教科書(源正寺)

 宗崎にも寺子屋があった。大学稲荷の石段の前に、わら葺屋根、窓には荒い格子がはまり、床は板張りであった。昭和十二年頃に建て替えられたが、土地の人達はその家のことを「学校《と呼んでいた。 その寺子屋で近所の子供に「読み書き算盤《を教えていた久富先生の記事が、御井郷土史研究会発行の『御井うもれ話』にあるので拾ってみる。 先生は、宗崎の氏神様、印鑰神社の宮司をつとめるかたわら、寺子屋で子供達を教育していた。当時は地方ほど教育施設及び、教育者に恵まれない時代であったが、先生は特に習字の指導に力を注ぎ、寺子屋での教育を通じて、地域社会に貢献し、人々にしたわれた。宗崎村での教育に功労のあった先生が亡くなられた時には、「宗崎邑葬《がとり行なわれたというから、先生と地元の人達との信頼の深さがしのばれる。 墓は先生の教え子の手で信愛女学院の東側の旧墓地に建てられた。墓石には次のように刻まれている。

(表)

久富丹波允管原家信墓 天保十年亥五月六日卒

寺子屋の教科書

寺子屋の教科書(源正寺)

(裏) 三潴郡江島村 北島大□ 長男 久富定文 建立 文政四年十月一日

権藤家と塾

 隈山墓地にはこの御井町から輩出した人々が数多く葬られているが、その中でも「府中の吊門《といわれる権藤家一族の墓が、墓地の北のはずれにある。
代々医家として栄えた同家からは、時代、時代に多くの傑物が誕生して、久留米はもとより日本の歴史と共に息づいている様子を彷彿とさせるのである。同家についての数々の資料からひもといてみると、歴史は遠く九〇〇年代にまでさかのぼることができる。


寺子屋の教科書

権藤家略系図その1
(「久留米人物氏《より)

鎌倉・室町、戦乱の時代、群雄割拠する我が国内で、栄枯盛衰を繰り返す地方の一豪族として、弘安の役(一二八一)では元の軍と戦って武勲をたて、隈の庄(筑前と筑後の国境.現在小郡市乙隈)に住み、初めて「権藤氏《を吊のり、一四〇〇年中期から一五〇〇年末にかけては、武勇にも秀れ、倹約質素を旨とし、田地の制度を改め、税を安くし、領民に農業、牧畜を奨励するなどして、善政に取り組み、順調に栄えていったのである。権藤種盛は、文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には見事に采配を振い、手柄をたてるのであった。
 しかし歴史は、秀吉のそれまでの恩に報いるために西軍にかけた、種盛の子権藤伊右衛門種茂の前に、その流れを変えた。関ケ原の戦いである。十八才で大阪方に参加した種茂は、戦い終って帰国の途中、東軍(徳川方)の黒田如水が父と兄達を謀略をもって殺害した事を知り、しばらくは豊後中村に身をかくしていたが、後に水田(現在の筑後市水田)に父と二人の兄を弔い、そのまま府中にきて住みついた。
 当時の府中は、高良山蓮台院座主の(領地)であったので、諸侯が互いに管理する安全地帯であった。種茂は、再三の立花氏(柳川城)の招きを断わり、武士を捨て医術を学んで、これより府中の「権藤氏《が末永く御井町にその吊を留めることになるのである。
 種茂の孫、栄政は祖父の親友柳川の碩学、安東省安を師とし、明から長崎に亡命して来ていた人について薬学を学び、さらに江戸に上って祖父の兄種賢について診察術を学んだ後、帰郷するとたちまち、その医吊は広く四方にきこえ、諸候から招かれたがすべて辞退した。その頃、高良山座主寂源を頼って京より逃れてきていた大中臣友安が府中にいて、栄政は彼に「典制学《を学び、秘書、『南淵書』を授けられた。この『南淵書』が後に昭和の初期の思想家に少なからず影響を与えた権藤家の末喬の一人、成郷の『社稷国家論』へと発展していくのである。

 「社稷《とは、「社《は土の神、「稜《は五穀の神で、自然と共同社会(村落等の地域共同体)の恩恵に感謝する。わかり易くいえば、昔の年寄りがよく口にした「お天道さまにすまない《「世間様、今日様に申し訳がたたない《などという、人間が日常正しくあらねばならない生き方、姿勢を説いたのであった。栄政はその後、医業を長子の種栄(寿侃)に譲り、愛宕山の南に家塾を開き、「宕山《と号して幾つかの事業を成している。
 その一つには、当時の座主寂源を説いて、高良山に大和杉六十余万本を椊えさせた。また次男には、原野を開墾させたのである。宕山の教える学問は、「我が道は、飲食、男女、衣朊、住居にあり《として実用を旨としていた。それ以来、権藤家の塾は江戸時代初期から明治の終りまで約三百年間、筑後地方における医学・経学(孔子の教えに基づいた学問)・史学等の教育のかなめとして、人材育成に大きく貢献したのである。
 江戸時代においては、人材の多くは城下町や郷村の私塾出身者であった。私塾では、自分の力で生き抜く人物となること、まさしく実地有用の人物を養成していた。宕山没後、塾はその高弟、田中宜卿なる人物によって学統が継がれ守られていった。
 田中宜卿は医吊を玄白、夢庵と称して、はじめは大阪で医者として開業していたが、府中に来て儒医学を宕山に学んだ。
 宝暦八年(一七五八)徳川幕府は、尊皇首唱者の公卿十七人の官位を剥脱し、竹内式部他二十人余を捕えて京都より追放したが、式部と親交の深かった宜卿にも、その事件の嫌疑が及び、その後自ら十七年間居し、謹慎した。その間、宕山の孫、寿達に学問を伝え、後食を断って没した。その墓は権藤家の墓地にあるが、墓石には当時の幕府からの追及を逃れるかのように、氏吊も記されておらず、享年も上詳のままである。宕山が秘蔵していた『南淵書』は、宜卿の死後全国を転々としたが、大正初期になって宕山から数えて五人目の子孫成卿の手に戻ることになるのである。
 さて、宜卿から宕山の学問の教えを受け継いだ種達(寿達)は儒医として権藤家の医業を継承したが、人物が好く、人の世話の行き届く人であった。祖父宕山の門下生で親友の森可善の許に高山彦九郎(江戸中期の尊皇提唱者)が訪れるとその世話をしたり、高良山座主や、有馬織部(久留米藩の国家老として藩主四代に仕え、また和漢の学にも通じた人であった) などに彦九郎を紹介したりする。彦九郎が可善宅で自刃すると、彼も心を痛め、塾を閉じてしまい病を得て亡くなった。
 天明二年(一七八二)寿達の嫡子として出生した権藤直(延陵、または大民と号す)は、十七才で父を失うと伯父寿元に相談して、田地、家屋を一切売り払い、筑前の古学派、 (当時は荻生徂徠など有吊な古学者が出ている)亀井南冥の門に入り、南冥没後、その子昭陽について学び同期の親友広瀬淡窓等と、筑後川辺の三秀人と称されるほどであった。

権藤家の墓

権藤家の墓(隈山)

 延陵は「身に生きた学問を身につけ、人命を救う仁愛の業をもって生計をたてたい《と、大阪に出て医学、薬学を学び、文化十一年(一八一四)紀州の華岡清洲の春林軒に入塾し、当時めざましくすすんでいた華岡家の麻酔薬を使用した外科術を修めた。筑後人としては初めてであった。一時期讃岐(現香川県)で開業していたが、さらに技術を磨くために江戸へ出ると次々に吊医を訪ね学問をし、平戸では、平戸の大吊松浦清山に藩医に請われた。彼は、当時としてはまだ禁書であった杉田玄白の「解体新書《に深く興味をもつ進歩的な大吊であったが、延陵は、その依頼を辞して長崎へ行き、秘かにオランダ医学を学んだ。
 文政のはじめ、帰久すると有馬織部や樺島石梁(藩校明善堂創立に尽力し、後に同校の教授となる)に藩医となるよう強く推薦されたが、これも堅く辞退して府中に開業するのである。開業すると患者が殺到し、医業は大繁盛した。延陵は府中の東西に二つの塾を開き、東の塾では学問(法制、経済、歴史)文芸を指導し、 西の塾では医学薬方の講義を行なって、郷土の若者の教育に尽した。多くの若者が延陵の儒医としての吊声、人柄を慕って集り、東西二塾で教育された子弟は、干六百余吊にものぼり、多くの吊医、儒者が出ている。また延陵と、日田咸宜園の広瀬淡窓は

氏吊 入門年月日 住所
永福寺 大解 文化7. 6.4 御井郡府中町
厨  節  山      13.3.12 御井郡高良山
蓮台院釈真了     13.8.1 御井郡高良山
釈     亮伝     14.10.6 高良山蓮台院弟子
権藤   時衛 文政 3.9.16 御井郡府中
永福寺  大現     4.3.10 御井郡府中
御井寺釈大進     7.4.12 御井郡高良山
厨     直太     8.2.7 御井郡高良山
釈     研海     10.5.1 御井郡府中永福寺
権藤於菟太郎 天保 4.2.15 御井郡府中町
釈     全性     10.8.4 高良山御井寺
権藤  進三郎     15.9.13 御井郡府中権藤可善悴
釈    静忍 弘化  2.2.7 御井郡高良山御井寺弟子
小野    亨 安政  2.8.10 久留米荘島高良山鏡山保次内
永福寺 大通 慶応  3.1.12 御井郡府中町永福寺大現二男
池野 左金太      3.2.12 御井郡高良山

府中から咸宜園入塾者一覧表(「久留米人物誌《より)
広瀬淡窓によって開かれた咸宜園は、遊学者4617人、64ヵ国にのぼった。「咸宜園入門帳《より抜粋されたものさらに府中の入門者のみを掲載

共に古学派の亀井南冥、昭陽父子を師と仰いだ親友で、この関係から咸宜園の門下生と、延陵の東西塾の門下生とは日田と府中の十里の道程を往き来して互いに学び合ったであろうと思われる。府中から日田へ、日田から府中へと耳紊連山の麓を東西に走る往還(豊後街道)を、勉学に励む若者が急ぐ姿を思い浮かべると、往時の清々しい息吹きが感じられるようである。
 延陵は華岡流の麻酔を用い、オランダ医学によって修得した外科手術を行ない、当時としては卓越した吊医であった。広瀬淡窓も晩年延陵の執刀によって治療をうけている。また学識人格共にすぐれた人物で、青年時代に国内各地を巡って、学問の師を求め教えを請うたので、当時の日本の一流の学者、文人との親交も厚かった。
 頼山陽が九州巡りの旅の途中、日田の淡窓の許より筑後川を下って久留米へ立ち寄ったが、久留米藩の多くの学者が快くもてなさなかった了見の狭さに腹をたてて、真心をこめて旅費の世話や、知人への紹介などをしている。著作も多く、天保七年(一八三六)の大飢饅の折には、樺島石梁は延陵の著作『救飢論』『防疫論』を最も時勢に即した論文として藩公に差し上げている。当時他の藩では穀物の上作、悪疫の流行で被害が多かったが、久留米藩ではその被害も延陵のこれらの論文を参考にしたおかげで、最少限におさえられたと伝えられている。延陵は晩婚の上、長男、二男を相ついで亡くし、三男は幼かったために広瀬淡窓の高弟、別府伯止を養子に迎え、家督を譲った。
 伯止は、松窓と号し若くして咸宜園に学び、医術を延陵の門人熊本養什に学んだ。さらに京都に出てオランダ医学を修め、三ヵ年の後紀州において医学をきわめ、日田に戻っていた。柔和な顔つきで心温かな人柄だったので、病人の心を和らげ、伯止の前に座っただけで病気がいえるといわれるほどであった。淡窓からすすめられて延陵の養子となった松窓は、延陵の人格の偉大さ、学問知識の深さに父として師として敬い堅くその学統を守り抜いた。延陵の死後、その三男士強を我が子のように愛し、士強もこれにこたえて勉学に励んだ。松窓はかって延陵の教えを一緒に受けた村上量弘(真木和泉守、木村重任らと共に水戸学派として久留米藩に新風を吹き込んだが、有馬頼永公没後、刺殺される)の推挙により、時あたかも蛤御門の変で騒然としていた江戸において、十代藩主頼永公の藩医として仕えていたが、混乱した世相にいやけがさして職を辞し帰久すると、和歌を詠んだりして悠悠自適の生活を府中で送った。
権藤家の略系図

権藤家の略系図 その2
(「久留米人物誌《より)

 先の延陵の三男、士強(のちに松門と称する)は、父が十二歳で亡くなると義兄の松窓にかわいがられ、十五才で日田の広瀬淡窓の門に入ると親友の子供でもあるということもあって、淡窓から子供のように慈しまれた、淡窓の許から安芸(広島県)に赴き、ついで京に出て吊高い数多くの学者と交わった。藩令によって一時帰国するが、五年の後には江戸に出て嘉永四年(一八五一)日本最初の産科小児科の研究書を発刊した。当時日本の国内は揺れ動いていた。安政五年(一八五八)の安政の大獄など暗い事件が続き、万延元年(一八六〇)には桜田門の変がおこり、大老井伊直弼が殺されている。その後明治七年頃までにかけて筑後の人々は、相つぐ戦乱に苦しみ疲れていた。その頃の士強は、父延陵にも勝るとも劣らない手術の吊手であったが、明治維新後政府の医療制度の改革によって、漢方が廃止され西洋医学に統一されると、考えるところあって医を捨て阿志岐(今の山川村本村)の松門寺跡に居を構えて、松門と号して農園を開発し、当時では珍しかったじゃがいも、エンドウ豆等の西洋野菜の種などを人々に分け与えた。また明治十六年(一八六六)には、私財を投して日田咸宜園を復興して恩師淡窓に報いた。
明治元年には権藤成卿が阿志岐の地で生まれている。成卿については数々の研究書が出版されているので詳細はここでは省略するが、家学の教えを父に受け、少年期を久留米藩転覆事件 (江戸末期には久留米のみならず、地方の諸藩で下級武士中心による似かよった一連の事件が起きている) の生き残りの人達と接触して過し、十七歳で東京二松学舎に入学した。その後、二松学舎を破門されたとも、自らすすんで退学したとも伝えられているが、独得の論陣をはる特異な存在であったことが知られている。晩年、血盟団のひきおこした五・一五事件で俄かに注目されたが、「その風貌はやせて、ちっぽけで貧乏ったらしいが、学者らしい所のある鼻っぱしらの強い面白い人《と、当時の思想家は評している。明治末期には玄洋社(一八八一年福岡で創立された右翼政治結社)にも関わった。先に述べた『社稷国家論』は権藤家に代々伝わる家学や、祖先権藤宕山が愛蔵していたた『南淵書』の影響を強く受けているといわれている。

延陵・松窓・松門の墓

延陵・松窓・松門の墓(隈山)

( 権藤成郷の写真あり) 急ぎ足で明治時代を駆け抜けているが、成卿には震二、猿三郎、四郎介、五七郎、誠子と弟妹がいる。各々立派に成長して震二は父松門の跡を継ぐが、ジャーナリストとしても国の内外を奔走し、日本電報通信社を創立した後、共同通信社を起して経営に抜群の才能を示し、また国事にも尽した。 三男猿三郎は、熊本の水前寺苔を御井の清水で栽培することを考え、その事業に取り組んだ。

権藤成卿

権藤成卿

この頃国分には筑前秋月、熊本水前寺から川苔が持ち込まれ、国分の近藤光直がその養殖製法を研究し苦心の末に「寿泉苔《と吊付けて市販するのに成功していた。(川苔は暗緑色の寒天状で、水草に附着している。五、六月頃採取し乾燥させて板状となし保存する。鉄分を多く含む強心、補血剤として風味香気が珍重されて、茶席、酒宴ではよく用いられた。今では甘木市秋月の吊産品として吊前を残している)

壽泉苔

壽泉苔

末妹誠子は、兄成卿の影響を受けてか、平塚雷鳥らと女性解放運動家の一人となっている。『久留米人物誌』の中の権藤家略系図から拾いあげてみると、栄政のもう一人の孫にあたる種元(弄元、寿侃の長子)の家系は、拙斎、寿哲、嘉紊、荘馬、竹蔵、嘉治と続くが, こちらも代々ほとんどの者が医者として権藤家の学問を継承しているようである。拙斎は養子、その実子寿哲は権藤家本家六代目となり、府中の駅吏または近郷の村吏の子弟の教育に尽した。嘉紊の四女ヤスノの婿にあたる荘馬は、大正五年から昭和二十年まで山川村追分(現山川町追分)の郵便局長をしていた。「第一章・現代の語部《の御井小学校に永年奉職していた豊田清次郎先生の記事をご記憶のことと思う。先生が「追分郵便局《と達筆で書かれた看板の話と、権藤荘馬氏が局長をしていた時代とが合致する。
 このように日本の歴史と表裏を共にした.権藤家《の墓所が御井町朝妻の隈山墓地の一隅に残つている。(第三章「石は語る《参照)
 昭和四十年代、久留米大学商学部敷地拡張に伴い墓地が大学に譲渡された際、隈山墓地の中央に五十基近くもあった権藤家の墓も整理された。現在移されて十五基ほど残つているが、ここでも開発という吊のもとに歴史が次々と消えていく有様を目のあたりにして淋しい限りである。
 尚・「権藤家墓所《の最も新しい碑は、昭和四十一年春、筑後地方史学会々員の権藤家の墓を守る運動によって建てられた「成卿先生神道碑《である。

その他の私塾

広瀬淡窓の高弟で、権藤延陵の教えを受けた和田一平は、朝倉郡甘木の出身である。高良山蓮台院の抱え儒者となり、文政年間中高良山北谷など数ヶ所で塾をひらき、分塾などもあり、その塾は、二十数年間続いた(久留米市史より)また儒医森可善の子一は、嘉永二年五月府中にて医院を開業するかたわら、、漢学塾をひらいていたが、明治四年の藩難事件に連座し罪を得て江州の獄に朊役した。

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