江戸時代の矢部

江戸時代になると、政治のしくみは荘の制度 から藩の制度に変わった。

矢部村は矢部川を境に、北矢部と矢部に分け られ、右岸の北矢部は久留米藩領(有馬二十一 万石)、左岸の矢部は柳川藩領(立花十二万石) に属するようになった。

郡部に属した町村は、行政組織として組制を 設け、郡内を数組に分けて管轄した。組には大 庄屋を設け、町村には庄屋、別当が置かれた。 庄屋は村のあつかい、別当とは町あつかいのこ とであり、庄屋を関東地方では名主といった。

北矢部は、北川内組(のちに大庄屋が豊岡の 本分組)、矢部は谷川組に属するようになった。

北矢部の庄屋は、鬼塚と中村の中間(石川内 附近で矢部中学校の校地ともいわれている)に 石川庄屋があった。矢部の庄屋は、飯干に末継 氏(旧庄屋)、古川氏(新庄屋)があった。ま た椎葉の森氏があり、所野にも庄屋があったと いわれる。せまい矢部に何人もの庄屋がいたこ とは考えられないので、何らかの理由で庄屋が 交代したとも考えられる。

笹又は、江戸時代に肥後、豊後への交通の要 所であり、警察の役目をする横目の月足氏が配 置されて山村の治安を維持していた。月足氏は 繁栄していたらしく、民具など多く残されてい たが、今は散逸してしまっている。また、飯干 の中川氏は、聞次という役目にあったことが資 料に残っている。聞次とは、字のごとく村人の 訴えを聞いてお上(幕府)に取り次ぐ役目であっ たと思われる。

上妻郡、下妻郡の両郡の別組は、久留米藩は 七組であり、柳川藩は二組であった。組の名称 は、その庄屋の居所によって時々変更されたよ うである。
矢部村の人口を書いた上野文書

矢部村の人口を書いた上野文書

久留米藩七組とは、
北川内組(のち本分組)福島組、新庄組、津江 組、古賀組、折地組、江口組であり、

柳川二組は、
谷川組、本郷組である。

久留米藩に属した村名をあげると、

上妻郡では、
矢部、北大渕、北木屋、今村、豆生野、中篭 本分、田本、湯辺田、椿原、釈形、鹿子尾、北 川内、藤田、一条、知徳、当条、牟礼、太田、 吉里、川瀬、長徳、古賀、太原、高間、清楽、 長延、久泉、扇島、増水、六田、吉常、甘木、 内田、長野、田形、柳島、津ノ江、祈祷院、忠 見、山内、大篭、井延、黒土、本村、平田、納 楚、馬場、豊福、宅間田、吉田、岩崎、川合、 平、国武、稲富、立野、福島町、大島、福島村、 高塚、宮野、酒井田、柳瀬、矢原、光、緒玉、 新荘、前古賀、鵜池、蒲原、亀甲、室岡、野村、 野田村、前津、徳久、秋松、羽犬塚、藤島、和 泉、荘、鳥若釆、長崎、渕上、富久、四か所、 江口、高江、富重、久富、臓敷、板東寺で、上 妻郡は九十三カ村があった。

柳川藩は、矢部、大渕、木屋、四条野、田代、 白木、本山、北田、山崎、鹿子生、兼松、谷川、 原島、辺春、田形、それに生葉(浮羽)のうち の土穴の十六ヵ村であった。

当時の人口については、安政五年(一八五八)、 矢部村庄屋、末継惣左衛門が谷川組の大庄屋上 野伊助に報告した上野文書によると、家内数(世 帯数)百七軒、人口七百二十五人、内僧四人、 男三百四十五人、女三百七十四人、盲女二人と ある。当時の矢部村は柳川立花藩領であるから、 今の矢部川の左岸大字矢部の人口である。北矢 部の人口はわからないが、矢部の人口の倍以上 はあったかと思われる。

ちなみに、現在の大字矢部の人口が七七四人 で、北矢部が一五〇五人である。

江戸時代の矢部は、矢部川をはさんで左岸は 柳川藩領、右岸は久留米藩領であったので、そ れぞれ異なった条件の下におかれ、風俗や習慣、 言語などやや異なった趣きをもっている。

例えば、同じ一里塚の道程にしても、柳川藩 には一里石が建てられ、久留米藩には一里塚が 築かれ、榎や欅などの一里木が植えられていた。

久留米藩の一里塚は現在八女地方には残って いない。柳川藩の一里石は、柳川城の辻門から 矢部と肥後境の三国峠まで十五里の柳川街道筋 に一里毎の一里石が建っていた。現在、残って いるのは十五のうち十が残っている。矢部で は、椎葉と谷野の中間蚪道(伊良道)の「十二 里」と所野荘厳寺山門入口に「柳川より拾三里」、 虎伏木に「柳川より十四里」の一里石が残って いるが、三国峠の「十五里」の一里石は見当ら ない。文化財として大切に保存しなければなら ない。

江戸時代、矢部村に入る道路は、矢部川をは さんで柳川道と久留米道があった。久留米道(矢 部道)は、大渕の花巡りから八升蒔、平野を経 て、日向神の上を通り鬼塚へ下りていた。

柳川道(柳川街道)は、大渕の月足から日向 神の黒岩を越え、椎葉から蚪道へ出て西園、飯 干、笹又を通り、所野へ続いていたようである。 のち、椎葉から分れて谷野に出て、飯干、笹 又へ通じる道が出来たという。

この経路を見てもわかるように、矢部への交 通はきわめて困難であった。このような事情か ら江戸末期に本分組の大庄屋、松浦氏のとき、 年貢を運ぶのに難渋したので藩に願い出て金納 にかえてもらったという。

言葉も両藩では違いがあって、久留米藩では 父母を「トトサン、カカサン」といえば柳川藩 では「チャン」とか「トン」とか呼んでいた。 両藩おたがいに対抗意識をもっていて、笹又で も地蔵様前の橋は、両方から半分ずつ架けるこ とになっていたが、子どもたちはこの橋をあま り通らず、すぐ喧嘩を始めていた。これは、矢 部にかぎらず、矢部川筋の黒木や下の方も全部 そうであった。「ハイ」という返事も、久留米 藩では「ナイ」、柳川藩では「エエ」と言って いたので、喧嘩をするときは、「あってもナイ」 といえば、一方では「親が死んでもエエ」とや り合ったものである。

江戸時代の矢部の産業は、乏しい水田と焼畑、 茶、楮、こんにゃく、椎茸、木炭(のちには櫨(はぜ)) が主な産物であったし、道路事情もあって林業 も盛んとはいえなかった。このような状況の中 で、村民の生活は楽ではなかった。

柳川藩の史料によれば、矢部村では天和三年 (一六八三)負債のため村役人であった仙頭と いう人の女房が連れ去られようとし、庄屋が所 有の田を質に入れて解決しており、貞享三年(一 六八六)には、代官の仰せ付けにより庄屋、長 百姓が田地を売り払っていることがみられるこ とから、元禄以前から矢部の生活が楽でなかっ たことがうかがわれる。

なお、矢部に関する史料には、他にも「一ケ 月に一人手間だけ働いて借金を返す」(宝暦六年、 一七五六)とか、「上納は椎茸、こんにゃく芋 でする」(文化十三年、一八一六)とかいうの も見られ、自給自足の自然経済の名残りがはっ きり見られるのも、ひとつの特色である。

古川氏所蔵の古文書には、文化十一年(一八 一四)年貢上納に困った農民が土地を手放す様 子が物語られているが、茶、楮、茶畑、こんにゃ く原などの文字が見られる。また、安永三年(一 七七四)には、柿木二本が二百五十文に計算さ れているなど生産力の低い山村農業の姿と貧し い農民の生活の様子がうかがわれる。

このように江戸時代の農民の生活は苦しかっ たが、これに追い打ちをかけるように干ばつ、 大風、洪水、霜害、飢謹、疫病などが度々襲っ ている。

慶応三年(一八六七・明治に元号が変わった 年)も凶作に見舞われたらしく、旧光友村、白 木村、辺春村(現立花町)、旧串毛村、木屋村、 大渕村(現黒木町)、矢部村の立花藩領十八ヵ村 が、年貢米の拝借を願い出た上野文書が残って いる。それによると、合計八百俵(うち矢部村 四十四俵)を秋の米の収穫まで一割の利息で借 りることを庄屋が連判で署名し、借用証書を書 いている。それにしても、利息一割とは高利で ある。

また、矢部村では四月八日、大霜により茶、 楮などが被害を受けて、困窮している様子を庄 屋末継惣左衛門の名前で、大庄屋上野伊助に訴 えた覚え書きも残されている。

農民の困窮といえば、全国で百姓一揆が頻発 しているが、久留米藩では、浮羽郡を中心に数 度の一揆が起こっている。中でも、宝暦四年(一 七五四)の百姓一揆は、日本の農民運動史上稀 に見る大がかりな騒動で、参加した者は十数万 人、生葉、竹野、山本、御井、三原、上妻下妻、 三潴郡に及んだ。その要求の一部は入れられた ものの、それに連座して処刑された者は四十七 人にも上った。この一揆が矢部にも波及してい ることは、矢部の庄屋が罰されていることから もうかがわれるが、矢部の農民が四名罰されて いる。

このほか、矢部に関することでは、文政二年 (一八一九)矢部村と豊後日田郡前津江村との 間に八ツ滝事件という境界線争いがあったこと。 寛文七年(一六六七)久留米藩主頼利(よりとし)公が春正 月、久留米から榎津、福島、黒木を通って日向 神、矢部に至り、星野を越えて浮羽郡を巡視し たこと。貞享元年(一六八四)柴庵から日田郡 梅野村(中津江村)に通じる豊後別道(川沿新 道)が出来たこと。享保一八年(一七三三)黒木 町の西村仁平衛と言う人が私財を投じて矢部村 の山地を開墾し、食糧増産を図ったこと。嘉永 六年(一八五三)大渕の寄谷の良作が道しるべ (大渕村牟田峠など)を建てたことなどがあげ られる。

八ッ滝事件

八ッ滝事件 内済和談證文八ッ滝事件 内済和談證文

八ッ滝事件 内済和談證文(山口氏所蔵)


矢部村と大分県前津江村の境にある権現岳 (御前岳)、釈迦岳の南に八ツ滝という約八百 町歩の山林がある。

文政二己卯(一八一九)七月、その立木を筑 後玄蕃領として北矢部村の人達が伐採した。と ころが、豊後日田郡の前津江方が、八ッ滝は豊 後領内であるとして抗議してきた。

矢部方は、八ッ滝は筑後有馬藩の領地内であ るとして伐採しても差し支えないと主張し、矢 部と前津江との間に境界線争いが起こった。こ れを八ツ滝事件という。
八ッ滝

八ッ滝

津江方は、矢部の山守仁右衛門、庄屋善兵衛 に掛け合ったが、双方とも自分達の領分である と主張して決着が着かなかった。そこで、津江 方は日田の代官所に訴えたので、日田代官所か ら有馬藩に掛け合うことになった。久留米、日 田双方から役人が出張し、両村からは庄屋、組 頭、その他村の総代を選出して実地検分をする ことになった。双方立ち合いのうえ、多くの日 時を費して実地検分を行ったが、それでも各々 主張を譲らず、翌文政三年六月になっても決着 がつかなかった。役人も業を煮やして引き上げ てしまって、事件は中断の形になってしまった。

おさまらないのは津江方である。津江大野村 では、相談のうえ庄屋ら三人が、日田代官所を 通して江戸の奉行所へ訴訟の手続きをした。こ れに要する費用は村から支出することにし、文 政三年六月四日に村を出発し、道中三十三日を 要して七月六日江戸に到着、訴状を奉行所に提 出した。奉行所では、訴状の趣旨によって双方 を呼び出して種々吟味した。

元禄年間の絵図面と筑後方から差し出された 絵図面と引き合わせたところ、筑後、豊後の境 界がはっきりしたので、双方納得し話し合いが 整った。

津江方は天平年間の古絵図によっていたが、 元禄年間に改正されていたのである。そこで大 野村から訴訟の取り下げをし、両者および取扱 い人一同連署し、内済和談證文(表向きにしな いで、内々に済ます証文―今日の示談書や覚 え書きにあたるか)を取り交わし、事件は一件 落着した。
 津江村の記録によると、江戸行きの日数は往 復滞在を含めて百七十七日、旅費総額四十一両 二朱を要したという。

日田は天領(幕府の直轄地)とはいえ、当時 百姓で江戸表まで出府し、命を賭して訴えた当 事者の気骨は見上げたものであり、この壮挙は 今でも前津江での語り草になっていて、この事 件を知っているものは多いという。

御側の山口恭正宅には、八ッ滝事件の「内済 和談證文」が残っていて貴重な史料である。