南北朝の動乱をへて戦国時代へ

応仁の乱から戦国時代へ

南北朝の争乱は、南朝と北朝の皇統を争う争 乱であり、両朝に分かれた武士団の戦でもあっ たが、一方武士一族の内輪争いや、武士・荘園 領主に対する農民の抵抗(一揆)などさまざま な形で繰り広げられた。この間に荘園領主の力 が衰えまた朝廷の実権もほとんど失われていっ た。内乱のあいだに守護は任命された在国の地 頭や武士などを家来にし、農民に税や労役をか けたり、荘園の年貢の半分を軍事費としてとり たてたりして、一国を支配する領主に成長して きた。こうして一国を支配するように成長した 大名を守護大名と呼んでいる。室町幕府の重要 な役職は、この有力な守護大名でしめられてい たが、管領の細川、山名、畠山、斯波氏などは 有名である。

将軍家のあとつぎ争いと、守護大名の細川氏 と山名氏との対立がからまって、応仁元年(一 四六七)京都を中心に戦乱が起こった。いわゆ る応仁の乱である。戦いは十一年も続いたので、 京都は焼け野原になり、焼け出された公家の中 には、守護大名を頼って各地におちのびる者も あり、公家の力は全く衰えてしまった。京都で 戦火がおさまったのちも、各地の守護大名は領 地を広げるため戦い続けたので、戦乱は全国に 広がり、約百年もつづいた戦国時代に入ったの である。

応仁の乱後、守護大名が戦乱に明け暮れてい るうちに、在所にいた地頭級の家臣が家臣団を 強めて地侍や農民をおさえる力を養い、実力で 守護大名をたおしていった。このようにして実 力で領国をおさめた大名が戦国大名であり、下の 身分の者が上の身分の者を力でたおす風潮を 「下剋上(げこくじょう)」という。

全国統一のさきがけとなった織田信長は、も と斯波氏の代官であったし、中国地方では、 大内氏が家臣の陶氏にたおされ、陶氏はさらに 毛利氏にほろぼされたのである。また美濃(岐 阜県)の斉藤道三のように民衆(油屋)出身の 者もあった。

こうして群雄割拠の戦国時代を迎えるのである が、甲斐の武田氏、越後の上杉氏、関東の北 条氏、四国の長曾我部氏など有名で、九州では 島津氏、大友氏、龍造寺氏などが勢力を争った。

十六世紀の中頃になると、戦乱の世にもよう やく統一のきざしが見えてきた。力をもった大 名のなかから、やがて朝廷や幕府のある京都に のぼって、全国を支配しようとする者があらわ れたのである。

その全国統一のさきがけをなしたのが織田信 長であり、あとをついで豊臣秀吉が天正十八年 (一五九〇)全国統一をなしとげ、さらに徳川 家康が二百六十余年続いた江戸幕府を創設した。

織田信長は全国統一が進むと、今までまちま ちであった土地の測り方を統一的な基準で実施 しようとした。それを継承したのが秀吉の太閤 検地である。太閤検地の重要なことは、日本の 土地制度に一大変革をもたらしたことである。 即ち土地の直接耕作者が土地の所有権者とされ、 そのかわり年貢を負担する義務を負わされるこ とになったのである。このことは、農村にあっ て半領主的な立場にあった武士の存在を許さな くなり、それらの武士は大名の家臣になるか百 姓になるかしかないことになって、武士と農民 がはっきり分かれることになったのである。

(兵農分離)また刀狩りを行って農民の武装を 解除して無抵抗の状態で土地にしばりつけ、武 士と百姓の身分がはっきり分かれることになっ たのである。

このような豊臣秀吉の政策は、中世から新し い時代への推移が感じられる。

戦国時代の九州

九州では肥後の菊池氏は既にその勢を失い、 良成親王を奉じていた五条氏もわずかに矢部の 渓谷を敵手に委ねなかったというにとどまり、 九州の地は島津氏をのぞいてほぼ今川了俊に よって号令せられ、足利氏の勢力の下に風靡し た。

明徳三年(北朝)元中九年(南朝一三九二) 大内義弘の献言によって南北朝は合一したが、 この間九州統治に多少の変化があった。今川了 俊は京都に召喚され、渋川満頼が代わって九州 探題となったが、満頼は了俊ほどの機略がな かったため、九州の実権は大内、大友両氏の手 に帰し、その隙に乗じて少弐、菊池氏も勢力の 挽回をはかろうとした。この間南朝の勢力は急 速に衰え、南朝唯一のよりどころであった矢部 の地は、次第にもとの山深い地域として取り残 されていったのである。

大内氏は豊前、筑前、筑後の一部および肥前 の東部を領し、筑前の守護代杉興運をして太宰 府を鎮めさせた。一方大友氏は筑後の大部分、 肥後の中部にその勢力を伸ばしていた。ところ が大内義弘は、のちに今川了俊を擁して鎌倉の 管領満兼等とともに反して泉州堺で敗死し、大 内氏の勢力は、その子がわずかに防長二国を領 するにすぎない有様となってしまった。これに 対して大友氏の中興の祖といわれる親世が、菊 池氏が衰えるとともに次第にその勢力を増して きた。

このころでは、すでに中央の威令が及ばなく なっており、九州でも渋川氏が探題となって西 下したものの、少弐、大友、島津の三人衆はこ れをよろこばず、探題の威令が行われなかった ので、六代将軍義教は大内盛見を直書をもって 召し、これによって九州をおさめようとした。 その子持世の手で九州は平定され、大友、少弐 氏の勢いは衰えていった。

その頃中央にあっては幕府も衰退期に入り、 管領細川、山名の二大勢力の対立は、ついに応 仁の乱(応仁元年一四六七)を招き、その余波 は全国におよび九州においても諸氏の消長がは げしく、大友氏が再び次第に勢いを振るってき た。一時山名宗全に与して上洛した大内政弘は、 細川方に与した大友、少弐、菊池の諸氏に領地 を奪われたが、京都の大乱が止んで大内氏も九 州に帰り、旧領を回復した。こうした中で、大 内氏に対抗していた少弐氏が衰えるに及んで、 松浦、有馬、千葉、龍造寺の諸家が分立し、そ の中でも肥前の龍造寺氏の勢いが最も盛んに なった。

龍造寺氏は藤原秀郷の流れといわれているが 鎌倉時代からわずかに肥前に根拠地を構え、文 治の頃(平安末期)龍造寺の地頭職となって、 これを姓としたのである。

この時期九州においては、島津、大友、龍造 寺氏が次第に勢いを振うに至ったとはいえ、九 州統治の中心である筑前方面では、依然大内氏 の勢力は根強いものがあった。この大内氏全盛 の頃は八女地方はおおむね大友氏の勢力下にあ り、黒木、星野、川崎、五条、上妻、溝口氏な どである。

天文二十年(一五五一)には、肥後、筑後の 諸将は皆大友義鎮に従うに至って大友氏の全盛 時代を迎えた。

大友、龍造寺、毛利氏の三勢鼎立(へいりつ)

大内氏は、義隆の時、豊・筑・防・長・石・ 芸・備の七ヶ国を領して最も強大であったが、 次第に驕奢に流れ、文事のみよろこんで武事を おろそかにしたために、陶氏に亡ぼされ、そ の陶氏もまた、毛利元就に亡ぼされてしまった。 下剋上の典型的な例である。それに乗じて大友 氏の勢力は日増しに増大してきた。

大友義鑑は武略においても祖業をけがさず、 富国の計にも優れ、海外貿易にも目をつけた。 その嫡子が義鎮である。ところが義鑑は天文十 九年(一五五〇)庶腹の弟到明に家督をゆずる として四老に諌められた。義鑑は怒ってこれら を斬ろうとしたが、かえって義鑑は殺害された。 義鎮は、そのあとを継ぎ、天文二十年(一五五 一)菊池を亡ぼし、筑前、豊前に兵を進めて諸 城を陥した。彼は九州平定の志を抱いて永禄五 年(一五六二)長子の義統に居城をゆずり、剃 髪して宗麟と号し、居を丹生島に定めた。

こうして大友氏は、大内氏の勢いを継いだ毛 利氏と自然九州において豊・筑の間で対立した が、第十二代将軍義輝の仲裁によって一旦和解 し、永禄七年(一五六四)三月には筑後一円を 略し、ここに龍造寺氏と対立することになった。

これより先、天文十七年(一五四八)龍造寺 の宗家が絶えたので、その支族であった山城隆 信が入って家を立てた。これが龍造寺隆信であ る。

このように中国に毛利氏、九州に大友氏と龍 造寺氏各々対立し、勢力争いは日々深刻の度を 加えるに至ったのである。

このような三大勢力下にあって筑後では、草 野(山本)、星野(生羽)、問注所(生羽)、三 池(三池)、黒木(八女)、五条(八女)、川崎(八 女)、田尻(山門)、蒲池(柳川)等があったが、 おたがいに自衛、侵略を事とし、郷土の形勢は さらに複雑さを加えた。

龍造寺氏勢いを張り、島津氏に亡ぼさる

島津氏は、始祖忠久が文治元年(一一八五) 島津御荘の下司職から文治二年総地頭職、三年 薩摩、日向、大隅の守護職となって地歩を築き、 以後七百年間、隼人族の代表勢力として連綿三 十代、頼朝の時代から日向、薩摩、大隅に勢力 を張る豪族であり、一貫して中央に反骨を示し た家柄である。

足利尊氏が叛くや、島津は直ちにこれに応じ たが、その後、島津氏は勇武であり、義久の頃 その勢い益々盛んとなった。島津氏に圧迫され た日向の伊東氏は大友に走って、援けを大友宗 麟に乞うた。

龍造寺隆信が八女郡に猛威をふるったのは、 天正七年(一五七九)から十年の間で、その間 島津氏と衝突したり、和解したりしている。

このような錯雑とした世相に八女郡の大勢も 関係の複雑なのはいうまでもない。大友氏の盛 衰に諸氏はその帰順に迷ったようであるが、五 条良邦などは菊池為邦に味方したものと思われ る。当時の戦乱の中にあって、一族の命運をか ける諸将がその去就に迷ったのは、けだし当然 のことである。

大内氏の衰微は、大友氏にとっては幸いで あったが、新興の龍造寺氏が日増しに強大にな るのは、大内氏以上の脅威であり、宗麟は兵を 出して永禄七年(一五六四)春、高良山に陣し て備えた。秋月、麦生、発心の草野、猫尾、高 牟礼の黒木、山下の蒲池等皆武勇の誇り高く、 龍造寺に通じて大友に従わなかった。

八女郡では黒木氏が要害の地に拠って、大友 軍を苦しめたので遂に和した。ただ星野氏は以 前から一貫して大友方であった。

大友氏の頽勢は覆うべくもなく、それに反し て龍造寺の勢力が盛んとなった。

天正に入って東肥を統一した隆信は、筑後に 入った。

大友勢が筑後において全く龍造寺に圧倒され てしまったのは、天正六年(一五七八)の日向 耳川の戦である。五条鎮定も日向高城で奮戦し たことが、五条文書にあらわれる。

筑後の諸将の去就も、龍造寺に降るのを潔し とせず最後まで隆信に抵抗した山下城を中心と する八女郡の平坦部と黒木・星野のような山間 部で龍造寺・島津に結ぶ諸将と、明瞭に色彩を 異にするに至ったのである。

反龍軍の中心は、山下の蒲池氏であった。天 正六年(一五七八)八月、大友軍が日向耳川に 大敗したという報に接した隆信は、筑後を掃討 しようと考え、十一月から肥前勢は山下城包囲 を始めた。頑強な抵抗を受け、ようやく四ヶ年 にわたって攻め落とした。五条氏は、始終大友 方であったと思われる。黒木氏、星野氏らは龍 造寺についていた。

勢いにのった隆信は、次第に権力をほしいま まにし、女婿である柳川の鎮漣を佐賀で謀殺し た。そこで一時圧服されていた筑後の将士も不 安を抱き、自立をはかるものもあって、天正十 年(一五八二)黒木兵庫守実久が挙兵した。筑 後はこの頃おおむね龍造寺に属していたが、薩 軍はしきりに肥後に勢いを伸ばし、一方高橋紹 運や立花道雪もこの頃からしきりに筑後におけ る大友の勢力挽回の機会をねらっていた。

肥後では赤星、隈部らが島津に志を通じてい たし、肥前でも有馬氏らが援を薩摩に求めてい たので、ここに島津、龍造寺相対することにな り、天正十二年(一五八四)三月十四日隆信は 島原で戦死したのである。

島津の勢力波及

猫尾城址と高牟礼城址

猫尾城址(正面)と
高牟礼城址(左の丸い山)

島津が隆信を亡ぼしたことを知った大友は、 急使を出してその戦勝を賀したが、実は島津の 強大化をおそれたのである。多年所領を蠶食さ れた大友氏は、龍造寺に報ゆるのは今なりと、 大友、龍造寺に撤兵をすすめた島津義弘の言を いれず、依然高良山に陣を布いていた。ここに 島津は遂に意を決して、大友討伐をせざるを得 なくなったのである。

天正十二年(一五八四)四月、大友義統は旧 領回復を図って、立花道雪、高橋紹運らを将と して各地に兵を出し、筑後を攻略し、黒木の猫 尾城及び笠原の高牟礼城を攻めたてた。龍造寺 は兵を出して猫尾城、高牟礼城を援けたが、九 月一日猫尾城主黒木実久は遂に降った。

道雪、紹運は勢いに乗じて山下城を攻め落し 山門郡から柳川に迫った。続いて瀬高などを定 めて高良山を本陣として龍造寺に属していた附 近を略して大いに勢力を回復したが、道雪が陣 中に病没し、大友の柱石もたおれた。

こうして大友も振わなくなり、島津に対抗で きない情勢になった。

島津氏と秀吉の九州征伐

秀吉は、天正十二年(一五八四)関白となっ てその勢力を全国に示して島津の力を十分知っ ていた。しかし、島津は秀吉の力を知らず、鎌 倉以来の旧勢力に自負の念を持っていた。

秀吉は、翌十三年九州経営の第一歩として、 十月三日勅命を島津に伝え、大友と和すること を勧めたが、島津はこれに従わなかった。十四 年正月、島津義久の使が大坂に上ってきたので、 秀吉は九州の国割を定めて、島津の旧領を安堵 すると言った。秀吉は再び勅使を派して大友と の講和を勧めたが、島津は九州統一の志を捨て ず、その言をいれなかった。同年四月、大友宗 麟は、大坂に上って秀吉に謁し、島津征伐を請 うた。

秀吉の真価を知らない島津は、大友の本拠豊 前を略するのに後顧の憂いのないように、先ず 筑後、筑前を定めようとした。筑後、肥前で猛 威をふるった島津忠長は、高良山に兵を集め、 先ず筑紫広門の所領肥前を略し、広門を降して 三潴郡大善寺に彼を幽閉した。さらに薩軍は筑 前に入って岩屋城を囲み、高橋紹運は力戦した が及ばず、戦死した。道雪の子でのち柳川藩主 になった立花宗茂は、わずか二十歳でよく奮戦 した。

そのうちに秀吉が征西するという情報が入っ たので、義久は八月下旬八代に兵をひいた。筑 前の諸将が旧城を奪還したことを聞いた筑紫広 門は、大善寺を脱し旧城に帰り、宗茂とともに 秀吉の九州入りを待った。

秀吉は、豊前に援軍を送って大友を助け、島 津を討たせたが、薩軍の勢力が強く、大友義統 は、府内(大分)を捨てて豊前に走るありさま であった。

秀吉は、援軍の仙石久秀、長曽我部信親の敗 北を聞き、自ら出征する決意を固めて、天正十 五年(一五八七)三月、安芸(広島)に至り、 三月二十八日、関門を越えて小倉城に入った。 近国の城主は争って秀吉に拝謁し、立花宗茂も 秀吉に謁した。秀吉は、立花統虎、秋月種実を 先鋒として十日筑後に入り高良山に陣した。こ の時、龍造寺政家、筑紫広門が来て、秀吉に謁 している。共に軍勢に加えて肥後に入り、十六 日隈本(熊本)に陣を布いた。

島津義久は遂に抗すべからずと知って、大平 寺に至って罪を謝し、ここに九州は秀吉によっ て平定された。

この間、戦国時代の習いにもれず、大小さま ざまな武将の抗争があったが、筑後でも実に錯 雑で変転極まりなく歳月は流れ、遂に秀吉に よって全国統一がなされたのである。

秀吉は凱旋の途中、筑前箱崎において、諸将 の功を賞した。

その中で筑後に関係のある分をあげる。
一、筑後三郡(生羽、竹野、山本)小早川秀 包、
二、上妻郡(五十三ヶ村一万八千石)筑紫広 門
三、筑後四郡(下妻、山門、三潴、三池)立 花宗茂

福島城を築いた筑紫広門

筑紫氏は少弐氏の支流で、尚門の時姓を筑紫 と改め、代々龍造寺氏に属していた。尚門から 数代後の惟門は、肥前において大友宗麟に攻め られ中国に走ったが、天正の頃再び肥前に帰り、 大友方となった。

惟門の子が広門で、彼は秀吉の九州征伐の折、 天正十四年(一五八六)四月、高良山で秀吉と 対面した。

同年六月箱崎における秀吉の論功行賞の結果 上妻郡五十三ケ村を拝領し、蒲池氏の居城で あった山下城に入り、この年さらに福島(八女 市)の地に城を築いた。これが福島城である。

その後、広門は秀吉の文禄、慶長の役で朝鮮 に出兵して戦功をたてた。しかし、慶長五年(一 六〇〇)の関ケ原の戦いで、立花宗茂、小早川 秀包とともに石田三成の西軍に与みして戦い、 そのため領地は没収され、広門は肥後の加藤清 正に寄食し八代にいたが、次いで細川氏に助け られ、後豊前の小倉において病死した。その子 主水正は徳川氏に仕えて旗本となっている。

福島城の城郭の細部はわからないが、本丸趾 は、現在の八女公園招魂堂となり、本丸、二の 丸をめぐる城濠は、八女公園から市役所(旧福 島高等女学校)の敷地にかけてその名残りをと どめ、その他町内の道路や堀や地名に昔を物語 る址が残っている。また、矢倉の面影は、掘り 出された鯱にしのばれる。

田中吉政の善政

筑紫広門に代って上妻郡五十三ケ村を領した のが田中吉政である。

吉政は、はじめ宮部家に仕えて七石二人扶持 であったが、次第に出世して宮部家の家老にな り、のち秀吉に仕え、慶長のはじめには、三河 国(愛知県)岡崎の城主になった。関ケ原の戦 いには徳川家康に与みして出陣し、石田三成と 対した。三成は敗れて北近江に逃れ、古橋村の 民与次郎太の家にかくれたのを、吉政は家人野 村伝左衛門、沢田小右衛門に命じて三成を捕え た。

三成を生捕って大津に至った吉政は、大いに その功を賞せられ、その功によって筑後国三十 三万千四百石の大名に封じられた。

吉政は筑後に入り、柳川城を改築し居城とし て定めるとともに、久留米篠山城に長子主膳正 をおき、次男久兵衛康政を福島城に据えて三万 石を与え、吉政の家老辻勘兵衛を黒木城代とし て三千六百五十石を与えた。

吉政は河川の改修や干拓開墾、道路の整備な ど内政に力を注ぎ、善政をしていて領民から慕 われたが、慶長十六年(一六一一)二月に病死 した。

吉政の業蹟は、筑後の至る所に残っているが、 村に残る一里石もその名残りである。柳川市の 水路のほとりには、近年吉政の治政を偲んで、 彼の銅像が建立された。

吉政の死後、三男忠政があとを継いだが、元 和元年(一六一五)大坂夏の陣に病気のため遅 参し、家康の怒りに触れ江戸にひきこもり、失 意のうちに病死した。忠政には子がなく、田中 氏は断絶し、康政も福島城を追われ浪人となっ て病没した。

福島城はその後、附近の大名の家臣が城番を つとめて国政をとっていたが、一国一城の制に よって黒木城とともに遂に廃城となった。

有馬藩二十一万石

篠山城 有馬豊氏公

篠山城(久留米)

久留米藩の始祖  有馬豊氏公

久留米藩主に任ぜられた有馬氏は、建武の中 興に大功のあった赤松則村の子孫であり、則村 の孫義祐が摂津有馬の地頭職になって代々その 地を領していた。

久留米藩の始祖有馬豊氏は、父則頼とともに 秀吉が毛利氏征伐に下向したとき功をたて、則 頼一万五千石、豊氏三千石を給せられた。その 後、豊氏は秀吉の覚えめでたく、文禄四年(一 五九五)三万石に引き立てられた。関ケ原の戦 では父子ともに家康に味方し、その功により則 頼二万石、豊氏六万石に加増され、父則頼の死 後その遺領を受け継ぎ、八万石の大名となった。

田中忠政兄弟の改易により筑後二十一万石の 大名に封ぜられ、上妻、下妻、三潴の一部と生 葉、竹野、山本、御原、御井計八郡の内五百二 十五ケ村を領することになって幕末に至るので ある。

立花藩十一万石

柳川藩の始祖は、立花宗茂である。関ケ原の 戦で大坂方第一の猛将としてにらまれた宗茂は、 西軍の敗北によって全領地を没収され、一時は 浪人となり、肥後熊本の加藤清正に身をゆだね ていた。清正は、宗茂の器量を惜み、もし自分 に仕えるなら玉名郡を与えるとまで言ったが、 宗茂はこれを断って京都に上り、人つてを求め て幕府に陳謝し、やがて奥州棚倉一万石を給せ られ、二万石、三万石と加増されていった。大 坂の陣でその功を認められ、田中忠政改易に よって、有馬豊氏と並んで柳川十一万石の大名 に抜擢され、元和七年(一六二一)柳川城に帰っ てきたのである。弟の高橋直次も三池に復帰し 一万石を給せられた。

宗茂は、南朝の忠臣で当時八代に身を寄せて いた五条氏の末孫を迎え、また黒木氏も迎えた。

柳川藩の始祖 立花宗茂公

柳川藩の始祖 立花宗茂公