山川町の紹介

あらまし

 山川町は山門郡の東南門北緯33度07分、東経130度31分に位置し、東は405mの"お牧山"を中心とする金甲山系を隔てて八女郡立花町、熊本県三加和町と、西は田畦で瀬高町と、南は熊本県南関町と、南西部は飯江川の上流を挟んで高田町(三池郡)と隣接している。
 東西3.1km、南北8.5km、面積は26.26平方kmである。
 地勢は東部の標高100m以上の山間地から、やや低い丘陵地を経て,西の方へとなだらかな平地へと傾斜している。
 平均気温は16度〜17度,年間平均雨量は1700mm程度,温暖な気候のため、米、みかん、筍、キウイなど多種の農作物が生産される。中でも目玉としての山川ミカンは(丸の中に山)みかんの銘柄で、県内はもちろん,特に関東方面にまで販路を持ち、その名声は高い。
 主要道路としては国道443号線が九州高速自動車道と併行し町の西部を南北に走る。町のおよそ中心部に高速道路のパーキングエリア(山川バス停)があり、福岡市,熊本市共に約1時間で結ばれている。殊に人情に厚く,真心をもって人に接する暖かいフルサトでもある。
生い立ち

 藩政時代は柳河藩に属し竹井組として大庄屋の支配化にあり、明治3年より幾多の変遷を重ね明治9年8月所属の三潴県が福岡県に合併された。明治11年の町村分画によると山川領域には次の村々があった。即ち、河原内村・清水村・尾野村・立山村・原町村・甲田村・重富村・北関村・真弓村・竹飯村・海津村であった。次の大きな町村合併は明治22年3月になされている。今までの尾野村・立山村・原町村を一つにまとめて富原村に、清水村・河原内村・大広園村・松田村を合わせて緑村に、甲田村・重富村・北関村・真弓村は一つの万里小路(まてこうじ)村に、竹飯村と海津村を合わせて竹海村とされている。いよいよ山川村が誕生したのは明治40年1月1日である。即ち万里小路村・富原村・緑村(うち河原内村と清水村のみ)――ここで緑村のうち松田村と大広園村は瀬高町に編入となる。――竹海村を併合して一大新村を形成した。因みに昭和元年の村勢要覧によれば11大字・36行政区にわかれ総面積1,447,000余坪、平坦部と山間部が殆ど相半すと記されている。次に昭和34年4月10日、竹飯・海津・飯尾が高田町に分村編入され、昭和44年4月1日町政施行により新しいイメージを求めて山川町が誕生した。
現況(世帯、人口は平成14年4月1日調査による。)
 「成立」昭和44年(1969)4月1日、山川村に町制施行して成立。
 「面積」26.26? 「世帯」1,676 「人口」5,876
「地形図」山鹿・大牟田
「役場」〒835−0101 福岡県山門郡山川町大字立山1278番地
「町名の由来」明治40年の合併時に当地の自然環境にちなんで命名。

 立地
 ミカンの町
県の南部に位置し、東は八女(やめ)郡立花町、北は瀬高町、西は三池郡高田町、南は熊本県玉名郡の南関町・三加和町に接している。町域全体が山がちであるが、古来筑後と肥後を結ぶ街道が当町東部の山麓を通っていたため、集落はこの街道沿いに形成され、なかでも原町は近世には宿場町として栄えた。現在、九州縦貫自動車道が国道443号と並行して当町を縦断し、山川パ−キングエリアが設置されている。
 当町は戦前から温州ミカンの生産地とて知られていたが、現在でもみかん栽培は町の中核産業となっており、「山川ミカン」の名で全国各地へ出荷されている。

 沿革
「原始・古代」
 古代の官道
 当町域における縄文・弥生時代の文化については、十分明らかにされていないが、西向きの山麓地帯を中心に古墳が多く、「福岡県遺跡地図」によると、山の上・赤坂・中尾・九折(つづら)・河原内・二本松・赤山・日当川(ひやてご)・原町・立山などの古墳群が分布する。
律令制下の当町域は山門郡に属した。「和名抄」所属の郷名は明らかでないが、「延喜式」に見える筑後狩道駅から肥後大水駅(熊本県玉名郡南関町)に至る古代の官道が当町を縦断していた。県境に近い北関は、肥後大津山関の北側にあたることからこの名が起こったといわれる。(南関紀聞)。「吾妻鏡」治承5年(1181)2月29日条には、肥後の豪族菊地高直が、反平氏の挙兵と同時に600余騎の精兵をもって大津山関を固め、海陸の往還を止めたことが見える。

 「中世」
 南朝の軍事ル−ト
鎌倉期から室町期にかけての当町域の状況を知り得る史料は極めて乏しい。しかし、後醍醐天皇の時皇居紫宸殿の怪鳥を刺殺した弓術の名手隠岐広有が、帝より真弓の姓を賜りこの地に隠棲したという伝説や、南朝の延臣万里小路宣房がこの地で没したという言い伝えなど、当町には南朝系の伝説が目立つ(旧柳川藩志・山門郡志)。いずれも確証はないが、たとえば康永2年(1343)に南朝の中院侍従義定・菊地武敏・大城藤次らが肥後境の竹井城に拠っていることからもわかるように、当地が肥後南朝方の主要軍事ル−トに当たっていたことが、こうした伝説を生み出す背景となったのかも知れない。

 国人田尻氏の支配
 戦国期には国人田尻氏の勢力圏であったと見られ、天文19年(1550)の田尻親種竹井原合戦手負注文(田尻家文書)には当町真弓・三峰あたりの地侍層と思われる真弓助八郎・三峰小四郎らの名があり、おそらく田尻氏の被官と思われる。天正3年(1575)の「島津家久上京日記」によれば、家久一行は当町を通過しているが、北の関の小市別当のもとに一宿している。また天正15年、豊臣秀吉の島津討伐軍は4月11日に当地を通過しており(九州御動座記)、今も旧街道を太閤道と呼んでいる。

 「近世」
 柳川領竹井組
 天正15年に下筑後の5郡は豊臣秀吉によって立花宗茂に与えられたが、文禄4年(1595)12月の「筑後国知行方目録」(豊臣秀吉朱印状)に見える当町関係の村は立山・北の関・河原内・中尾の4カ村合計2,188石2斗6升だけである。ほかは、おそらく上妻郡山下城を預けられた筑紫広門の知行地に含まれたのであろう。
 慶長5年(1600)、立花宗茂は関ヶ原の戦で改易となり、代わって筑後一円は田中吉政が支配した。田中氏時代の支配については史料が全く残っていない。元和6年(1620)田中家は断絶し、翌年には再び宗茂が旧領に復帰した。
 柳川藩立花氏による郷村支配野本で、当町の村々は竹井組に組み込まれた。郷村には郡役の配下に属する代官・大庄屋があり、、一村または数村ごとに庄屋・長百姓・組頭の村方三役が置かれた。竹井組の大庄屋は樺島氏が世襲した。竹井組は山門郡南東部の肥後境に接する22カ村で、このうち当町関係の村落は、中尾・川原内(河原内)・立山・在力・原町・佐野・中原・三峰・小萩・真弓・北関の計11カ村、「天保郷帳」による村高は3,746石余である。また、「旧高旧領」では南広田村と野町分が加わっている。

 御牧山と山筒隊
 当町一帯の山野(佐野山・蒲池山)は柳川藩の御用林として御山方が支配した。「旧柳川藩志」によれば、樹木の下葉浚えは所属の村落が受け持ち、下葉は無償で下付したが、伐採・山出しなどの人夫は、公役として庄屋を通じ、村から徴発したという。
 佐野山は3代藩主鑑虎の天和2年(1682)、藩営の牧場として開発したため、その名を御牧山と称するようになったが、これに伴い貞享4年(1687)以後、野町では牛馬市が開かれるようになった(旧柳川藩志)。
 山林を背後に控えた当町は、上妻郡山地の谷川組と並んで山筒組の生活基盤であった。竹井組山筒隊は40人からなり、平時には農耕・狩猟に従事し、非常の際にはそのまま鉄砲隊に編成されるが、これを統率していたのは矢部(八女郡矢部村)在住の五条氏であった(県史3−中)。享保2年(1717)、藩は田尻惣馬を普請役として蒲池山に大堤を築造し、竹井・小川・楠田3組所属の村々の感慨に供させたが、この堤は今日も大根川の水源として、その機能を失っていない(柳川藩三善氏記録)。
 
 原町宿
 古代の官道は、近世には原町往還と称し、江戸初期までは原町より山門郡の東部山麓沿いに本吉・小田を経て久留米へ出たが、3代鑑虎の時、野町より瀬高・本郷を経て羽犬塚(筑後市)・久留米に至るコ−スを九州大名の参勤道路に定めたといわれる(旧柳川藩志)。
 その宿場が原町で、馬継所や茶屋が設けられ、街村を形成した。今日、小町女郎屋跡と称している所は茶屋の近くにあり、「桜屋」の屋号で旅館を営業していたと伝えられる。



 「近現代」
行政区画の変遷
 当町域は、明治4年柳川県、三潴県を経て、同9年福岡県下となった。同年村々の合併が行われ、新たに尾野村・甲田村・重富村・清水村が成立した。同22年市制町村制施行により、山門郡富原村・万里小路村・緑村の3カ村が成立。緑村の一部は現瀬高町域となっている。明治40年富原・万里小路・竹海の3カ村と緑村の一部は合併して山川村となり、昭和34年旧竹海村域を三池郡高田町に分離。昭和44年町制施行により山川町が成立した。

 ミカン農業の発達
 当地域では、明治24年に東肥鉄道の矢部川(現瀬高駅)〜南関間の開通を見たが、大正末期には経営不振で廃業となって以来、近代交通から取り残された旧街道村としての衰運をたどった。
 しかし、第2次大戦後の昭和30年頃から、温州ミカンを中心とする果樹園芸農業が急速に発展し、当町はミカンの町として一躍脚光を浴びるようになった。当地のミカン栽培は、明治30年頃から始まっているが、大正14年に新品種「宮川早生」の育成に成功し、昭和の初期まで一時ミカン園の造成が進んだが、太平洋戦争とともに衰微していた。戦後の山川町では、昭和34年からミカン農業を基盤とした豊かな農村づくり5カ年計画を策定、農業構造改善事業とも相まって、一時ミカン園は760ha余にも及び、また共同選果場・低温貯蔵倉庫・共同出荷場やオレンジロ−ドの建設など設備と輸送手段の近代化が進んだ。しかし、現在では生産調整の結果果樹園地は約600ha前後に抑制され、一部ではキウイ栽培への転換も見られるようになった。
 他方交通面では、昭和8年に旧鉄道と並行して九州縦貫自動車道が開通し、隣の南関町にインタ−チェンジが設置されたことにより、明治以後、陽の当たらなかった古代以来の東肥ル−トが、再び脚光を浴びるに至っている。
史跡めぐり

いっちょ願いの地蔵さま
 お牧山の登り口、谷軒(たんのき)区の入口に、お牧山の安泰を願い鎮座。藩公時代の建立という。"今は昔"樹木生い茂り草深いお牧山に分け入った村人が道に迷い狐つきの状態で進退きまわり、うずくまりまがら信仰の地蔵様を念じ称名を唱えていたところ、光明がさし招き無事下山した。この光明こそ地蔵尊の光背だった。以後霊験の"ミチアケ地蔵"として近郷の人々の信仰厚く、一つの願いごとが叶えられると言い、"一つ願いの地蔵様"と言う人もある。従って供養が絶えたことがなく、哀愁の顔は印象的で忘れられない。あなたも、お願いしてみては?

1. 大塚古墳
九折(つづら)にある全長44m、幅25mの前方後円墳。従来貴人の墳からしか出土しないとされる円筒埴輪の蓋(きぬがさ)の破片が出た。付近の古墳と考え併せ重要な処女墳。

2. 蒲地山の大堤
享保2年柳川藩普請役(ふしんやく)田尻惣馬が人夫述べ7万6千人の労役で築いた大溜池。南北180m、東西468m、周囲1500mの大堤で、蒲地山にある。

3. 雪蓬(せっほう)山
柳川藩主第三代立花鑑虎(あきとら)公とその子鑑任(あきとう)公の墓地で石塁を敷きつめ荘厳な墓地。南下段には御いちもんのとそのゆかりの墓もある。東丘上には一字一石塔がある。

4. 平家の塔
源平の決戦場としての山川町における唯一の証拠の供養塔で残決3基の五輪の塔である。山川農協広場西側の個人の屋敷敷地内道路側に建立されている。

5. 七霊(しちろう)の滝
山川町は源平合戦、最後の決戦地である。寿永4年3月壇ノ浦で滅んだ平家の残党は南へ南へと遁れ、最後の決戦をここ山川の地に求めた。要川を中心とし、その付近では壮絶な戦闘が繰り広げられ、草も朱に染まり,川の水は血の色に変わり流れたという。
 七人の女官は東の山中に遁れたが、源氏軍の鬨(とき)の声を聞き,遁れられぬを悟り,ついに昼なお暗い幽谷の滝つぼに身を投じ入水、草葉の露と消え鯰(なまず)に化身したと言う。村人が、これを哀れみ社を建て、その霊を弔った。
 源平の戦跡こそ山川町の特色であった。

6. 真弓広有公の墓
建武元年南朝の忠臣広有公は後醍醐天皇の勅命を奉じ紫震殿(ししんでん)に現れた怪鳥"ぬえ"射殺の功により真弓姓を賜わり、後、懐良(かねなが)親王、西下のお伴で九州に下り,親王の死後はここ真弓の地に住み一生を終わった。

7. お牧山
405mの麗峯。柳川藩主第三代立花鑑虎(あきとら)公は天和3年母里の仙台から種馬をとり寄せこの山を放牧場とし軍馬・農馬の育成をした。頂上付近に馬頭観音を祀り、万病に霊験あらたかな"金霊泉(きんれいせん)"の湧水もある。

8. 要川(かなめがわ)
  寿永4年3月壇ノ浦で滅んだ平家の残党はここ山川の地へ落ち延び、土豪僧徒(どごうそうと)の援助を得て、ここ要川付近で最後の決戦を試みたが、ついに利あらず,全滅の憂き目にあい、南、熊本方面へ数人が落ちのびたとも言われる。

9.松風の関
  北の関にあり肥後と筑後の国境の軍事・交通の要衡の地で昔、関所があり、通行人を改めた所である。関抜けした人々が磔の刑、あるいは斬殺されたのを哀れみ,里人が供養のため建立した首切り地蔵さんも残っている

写真のページ
脇鼎弓広也瀞公の叢
        (南朝の忠臣)
 真弓氏は、人皇第七代孝霊天皇の第九皇子、道豊事主尊の八世の胤(子孫)大弓音人と言う人がその先祖である。この人は射術の祖と言われるほどの弓の名人で、その昔、神功
皇后に従って三韓攻めに加わり、功があったので、日本射騎将軍の名をいただいた。
 その子孫は、武智と言う姓を称し、又隠岐に移住してからは隠岐を氏と
した。元弘三年(一三三三)後醍醐天皇は建武と言う元号に変え新しい政治を始められた。ところが、たまたまその年に伝染病が野火の広がるように大流行。ために死ぬ者は数え
切れないはどであった。折りもおり、天皇のいらっしゃる紫農穀の上に不思議な怪鳥が現われて「いつまで。いつまで」と不気味な声で鳴いた。天皇も団民も、この鳴き声を聞いて、新しい捷武の政治が何時まで続くのかと、あぎ笑っているように思えてならなかった。「えんぎでもない」と皆恐れた。
 そこで天皇は側近の公家さん達と相談されて、隠岐次郎左衛門広有に白羽の矢を立て、その怪鳥を弓で退治するように命じられた。首尾よく射落してみれば、それは銅と言う怪
鳥で、頭は人のようであり身体は蛇、くちばしは先が曲って歯はノコギリの刃のように鋭く、足には剣のように鋭い 「けずめ」があり羽を広げるとその長さは五メートルほどにも及んだと言う。
 誰にも出来なかったこの難しい鵜退治に成功した広有は天皇から大変なおほめの言葉をいただいた。更に天皇はその夜直ちに「五位」の似を授け「真弓」と言う姓をも賜わった。
 その後天皇の皇子廓郎親王が九州に下られた時天皇は広有に命じてお伴をさせられた。後に親王が九州の地でおなくなりになった後は自分のつとめは終わったと言うので広有は
肥後との団塊いの静かな山里に引きこもり、一生を終えたと伝えられ、この地が真弓と伝えられている。
 広有の死去は正平二十四年三月十九日で享年は六十五才葬儀の導師は大牟田・今山の普光寺の憎・蒙順と言われている。〈笠間益三・豪順聞書) 広有の墓と言われるものは、広有の二十三代の子孫の筑紫祐是有と言う人が菩提を弔うために真弓の中ほどの小高い丘の上に建てられたものである。
 墓石には、向って左に「大五百還供養塔」右には音人六十八世、四位真弓次郎太夫右衛門尉広有廟とあり、正面には、南無妙法蓮華経、在勅射騎将軍の文字と共に、「妙法経力病即消滅・上行無辺行布産・浄行安立行・苦悩乱者頭破(作)七分との有難い法華経の文字も刻まれている。
 この墓(廟)は山川町真弓の中ほどにある。