山川町写真一覧

番   号 名 前 説    明
一里石
一里石
所在地  三橋町大字久末

 柳河藩は、1701年(元禄14年) 一里石の整備をしている。
 当、一里石は、筑後柳河城辻門前の札の辻を起点として、柳河城下を隔たる一里の道標である。
 なお、この街道は、矢部から南関に通ずる大切な街道であった。
二里石

瀬高町大字下庄・JR鹿児島本線大竹踏切東側国道443号線から南へ10M位入る。

山川町赤阪 左へ清水寺、真っ直ぐ行けば肥後へ
三里石 山川町大字尾野字野町上町
 山川町指定文化財
 三 里 右石
所在地 山川町大字尾野字虎ノ尾
筑後藩主田中忠政は父の意志をついで、全国にならって慶長17年(1612)柳河域下札の辻を起点に一里塚を詔けました。山川町には、追分石(道標・野町赤坂)三里石(野町上町)四里石(北関)が設けられました。追分石は、野町赤板の四つ角、柳川にむかって右側の角に立てられ、右側面に「清水寺道」左側面に「柳河道」と彫り込まれているのが今でも読めます。この三里石は「三里」とのみ刻まれたものです。
 四里右は高速道路の北関のボックスの南側、旧道の傍らに立っていましたが、高速道路建設時になくなっていたため、三里石にならって町で元の場所に復元しました。南関街道(薩摩街道)にはこの外、一里右(三槍町一里石)・二里石(復元・瀬高町下の庄大竹)・国境石(大牟田市湯谷)があります。南関街道は肥後国とを綻ぶ重要な道路で、柳河札の辻から松風の関を経て湯谷国境石まで全長4里20丁余(約18.2Km)ありました。
 尚、旅人の便宜をはかるために「宿駅」と「お茶屋」が置かれました。山川には、宿駅(馬継斬・馬16頭が置かれた)「原町」。お茶屋「野町・原町・三峰・北開」に置かれました。
 現在の道路(443号)は当時の道路(旧道)に大体治っているか、または取り込んでいます。旧道もそのまま残っている所もあります。
今歩いてみても当時とは周りの景観は逢っても気分は味わえるのではないでしょうか。
一度歩いてみようではありませんか。
 山川町教育委員会
 山川町郷土史研究会
かさ地蔵 山川町指定文化財
  かさ地蔵
指定年月日  平成元年12月25日
所在地    山川町大字北関字地蔵後
 江戸時代後期の建立。板碑状の石に線刻のお地蔵さん。
 この近くでは珍しいものです。田尻種貞と並んで建てられていることは田尻氏の供養のために建てたものと考えられます。
  田尻因幡守種貞供養塔
 供養塔は田尻因幡守種貞/圓寂鎮了安大居士/文禄二癸巳年春二月二一日/明暦二年忌日造立焉末孫田尻種元/と4行に刻まれています。
 田尻氏は飛塚に本城を構え、代々ここを居城とするこの地方の豪族でしたが、永禄年間(1558〜1569)に城主田尻親種が鷹尾城に移り、ここは城番に守らせました。これより数百年間この城は続いたと言われています。
 種貞の事跡については明らかではありませんが、おそらく文禄2年(1593)・文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)で戦死したものと考えられます。
 ここに供養塔があるのは、種貞が親種以下鷹尾城に移った後も飛塚城を本拠として活躍。
 飛塚城の見えるこの地に居城を構えていた為でないかと考えられます。
              山川町教育委員会
              山川町郷土史研究会
四里石 山川町大字北関・九州高速自動車道の下を抜けた南側(左側)
松風の関 山川町大字北関・国道443号線の横。
  所 在 地 山川町大字北開字外囲
 古代からの筑後の国と肥後の国を綻ぶ些の鋳造が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。
平家物語に「考永二年・・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に低けるが、大津山の開閉けてまいらせんとて、肥後の国にひっこもり、・・・・。」とあり、ここに出ている大津山の閑が、現在の松風の閃を指すといわれいます。
寿永2年(1183)。当時概に関所として菊池氏によって守られていたこと。七世妃に作られた古代官通に閑斬を置いたものであろうと言うこと等が解ってきています。真弓有公が松見の関に布陣したのは正平14年(1359)頃ではないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。
その後弔国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、戦国時代の給わりに田中吉政が、筑後国32・5万石の領主として柳河域に入ると簾長6年(1601)、ここ松見の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。
   山川町教育委員会
   山川町郷土史研究会
水神さま はなたれ小僧さま発祥地

 この民話証生の地は大谷から真弓橋を渡った右手の川の渕である。古老の話によれば昔は深い渕であり、エビがたくさんとれたとのこと。あの話の中にはエビナマスが出て来るのでなるほどとうなずける。
 この話が放送局の調査取材ときもいりで世に広まり、真弓に眼られた民話であると言うので、区の有志の方々の芳志により、真弓の奥まった釈迦院に、水神様として祀り、その右伺が昭和三十八年九月一日に建てられた。この民話を永久に記念するために、この右桐の側面には「日本民話の中に謳われてあるハナタレ小僧様は、真弓に限られた唯一の尊い水神様である○最近その由緒がわかり慮にお祀りした」と刻まれている。
国境石 大牟田市大字四ケ字湯谷
    県指定有形民族文化財
 湯谷柳川領境界石
所在   大牟田市大字四ケ字湯谷
      指定   昭和38年1月16日
 ここにある新旧2本の境界石は、江戸時代に筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示すために建てられたものです。
 古い方は、江戸時代初期に建てられたものと思われ、一辺36cmの四角柱の花崗岩で作られています。三つに折れて中段と下段だけが残っており、現在高は、3mです。表面の文字は、読みにくくなっていますが、次のように判読できます。
 「(従是西)北筑後国立花(左近将監)領内 柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」
               (   )内は、推定
 新しい方は、古い方が折れたため江戸時代末期に取り替えられたものと思われます。一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱で作られています.表面には肉太の文字で次のように刻まれています。
 「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」
平成10年3月
      福岡県教育委員会
      大牟田市教育委員会
七霊の滝 平家落人伝説
七霊の滝
山川町指定文化財
七霊の瀧・七霊宮
 指定年月日 平成元年12月25日
 所在地   山川町大字甲田字若葉ケ谷
要川の合戦で敗れた平氏は、ちりじりになって落延びる以外に道はなかった訳ですが、
多くの女官達も彼らと運命を共にしました。
その女官達の中の七人の上臈は今はこれまでと覚悟を決め、要川から待居川をさかのぼり、昼なお暗い森の中の滝壷に身を投げて果てました。里人達はその死を哀れんで、瀧の傍らに社を立てて祀りました。
それから誰言うとなく瀧を「しちろうの瀧」、社を「しちろうぐう」と呼ぶようになったと言い伝えられてきました
尚この七人の女官は滝壷に身を投じた後、「なまず」に化身したと言われて来ています。
後に里人が大水でこの社のご神体が流されたとき「なまず」がくわえて助けたと言う話が残っていて、それ以後この地方では「なまず」を食べない風習が、待居川は元より飯江川中流域まで残されています。
上五位軒 七霊の滝入り口から映す。平家落人の里といわれる
御牧山 柳川藩御用牧場
真弓川 山川町大字真弓。奥は山々である。

真弓城跡 脇鼎弓広也瀞公の叢
        (南朝の忠臣)
 真弓氏は、人皇第七代孝霊天皇の第九皇子、道豊事主尊の八世の胤(子孫)大弓音人と言う人がその先祖である。この人は射術の祖と言われるほどの弓の名人で、その昔、神功皇后に従って三韓攻めに加わり、功があったので、日本射騎将軍の名をいただいた。
 その子孫は、武智と言う姓を称し、又隠岐に移住してからは隠岐を氏とした。元弘三年(一三三三)後醍醐天皇は建武と言う元号に変え新しい政治を始められた。ところが、たまたまその年に伝染病が野火の広がるように大流行。ために死ぬ者は数え切れないはどであった。折りもおり、天皇のいらっしゃる紫農穀の上に不思議な怪鳥が現われて「いつまで。いつまで」と不気味な声で鳴いた。天皇も団民も、この鳴き声を聞いて、新しい捷武の政治が何時まで続くのかと、あぎ笑っているように思えてならなかった。「えんぎでもない」と皆恐れた。
 そこで天皇は側近の公家さん達と相談されて、隠岐次郎左衛門広有に白羽の矢を立て、その怪鳥を弓で退治するように命じられた。首尾よく射落してみれば、それは銅と言う怪鳥で、頭は人のようであり身体は蛇、くちばしは先が曲って歯はノコギリの刃のように鋭く、足には剣のように鋭い 「けずめ」があり羽を広げるとその長さは五メートルほどにも及んだと言う。
 誰にも出来なかったこの難しい鵜退治に成功した広有は天皇から大変なおほめの言葉をいただいた。更に天皇はその夜直ちに「五位」の似を授け「真弓」と言う姓をも賜わった。
 その後天皇の皇子廓郎親王が九州に下られた時天皇は広有に命じてお伴をさせられた。後に親王が九州の地でおなくなりになった後は自分のつとめは終わったと言うので広有は肥後との団塊いの静かな山里に引きこもり、一生を終えたと伝えられ、この地が真弓と伝えられている。
 広有の死去は正平二十四年三月十九日で享年は六十五才葬儀の導師は大牟田・今山の普光寺の憎・蒙順と言われている。〈笠間益三・豪順聞書) 広有の墓と言われるものは、広有の二十三代の子孫の筑紫祐是有と言う人が菩提を弔うために真弓の中ほどの小高い丘の上に建てられたものである。
 墓石には、向って左に「大五百還供養塔」右には音人六十八世、四位真弓次郎太夫右衛門尉広有廟とあり、正面には、南無妙法蓮華経、在勅射騎将軍の文字と共に、「妙法経力病即消滅・上行無辺行布産・浄行安立行・苦悩乱者頭破(作)七分との有難い法華経の文字も刻まれている。
 この墓(廟)は山川町真弓の中ほどにある。