鎮西八郎為朝伝説

  鎮西八郎為朝の母の墓といわれる石塔が塔ノ瀬に残っている。高さ約1.35m田んぼの横にぼつんと立っているが、昔からあったものかどうかは不明である。
 田の形が変形しているので、近くにあったものが田の横に動かされたのかもしれない。形は多宝塔で二;童の屋根がある。少なくとも江戸時代にすでにあったことは確かで、次の記録がある。
「小石原村の西、江川の奥に、塔の瀬と云う所あり。石の塔あり。民俗は、鎮西の八郎為朝、母のために建てられたる塔と云う。塔の瀬は小石原より一里下に有。民戸十二有」『筑前国続風土記』
源為朝は平安末期の武将。源為義の八男で、義朝の弟、義朝・義経兄弟の叔父に当たる。
 母は江口の遊女という。幼いころから腕白で、兄義朝に対しても態度が粗暴、これが彼の運命を狂わせることになる。弓の名手だったことは戦前の教科書でも紹介されているが、数々の乱暴を重ねて父の怒りを買い、13歳のときに九州に追放された。
 九州では、まず豊前の国に行き、紀平治という石投げの名人を家来にし、肥後に渡って阿蘇の豪族の娘、白縫姫を妻とした。その後、みずから九州総追捕使と名乗り、九州全土を征伐してまわり、鎮西八郎と呼ばれるようになる。小石原に来たことがあるかどうか、裏付ける資料は乏しいのだが、為朝の母の墓といわれるものが残っている。
 九州での勝手気ままな振る舞いは朝廷の耳に達し、父為義を追討将軍に任じ鎮圧に当たらせたがかなわず、為義は責任をとって官位をしりぞいれこれを知った為朝は、わずか28騎を引き連れて上洛、帰順した。17歳だった。この後、保元の乱が起こり、上皇方についた為義は死罪、為朝は伊豆大島に流される。
 為朝は、伊豆の島々を平定し、琉球にもわたったという。勢いをつけた為朝にふたたび追討軍が出される。すでに菩薩信仰をしていた為朝は、無益な殺傷をいさぎよしとせず自害する。しかし、各地には、このとき為朝は自害せずに逃れたという言い伝えが生まれ、さまざまな伝説が残ることになる。
 このあたりは義経伝説とよく似ているが、一人の武将の哀れな最期に対する庶民の思いやりが為朝伝説となって残ったのだろう。『保元物語』、さらに後世の江戸期になると『椿説弓張月』で広く知られるようになった。塔ノ瀬にある母の墓の言い伝えにも庶民の為朝愛慕が息づいている。
 こけむした小さな石塔だが、数百年の問、いろいろな思いを胸にお参りした人びと、その人びとを見つめてきた石塔、時の流れを超えて心に語りかけてくるものがある。
塔の瀬の石塔


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