大友軍と小石原

 国道500号線を小石原から甘木方面に向かう途中、権現坂と呼ばれる一帯に小高い峠がある。今は新道が出来ているが、旧道をいくと、丘の上に、千年まで、傘を広げたようなT字型の見事な松があって「御輿の松」と呼んでいた。その大木のそばに石室の祠、向かい側の山には板石の墓碑が立っている。室町時代の特徴をもつ碑で、彦山宿坊の三僧坊(一老坊、政所坊、亀石坊)の碑と伝えられてきた。

御輿の松 三僧坊の石碑

 1581(天正9)11月、豊後の大友宗麟は修験道の聖地彦山を攻め、焼討ちを仕掛ける。僧坊は御神体の御輿を奉持して黒川院に逃れる途中、御輿をこの丘に置き、東の方を見ると、彦山三千数百の一大法域は煙につつまれ炎上していた。今はこれまでと、はるかに彦山を伏し拝みながら御輿を埋め(一説には松の木に御輿をかけたともいう)、「宗麟、仏敵なり」と叫んで腹をかき切り、果てたといわれる。信長の比叡山焼打ちにも匹敵する法難だった。
 県史には、大友氏は小石原に部下を配置して警備支配していたと記されている。『筑前戦国史』(吉永正春著)には、鎮西最大の修験場彦山について「中世期の彦山は入峯の行者が盛んに行われ、名実共に天下の祈祷所として崇敬され、その力は天正初期までは戦国諸侯をしのぐほどであった。座主の舜有は秋月氏と、攻守同盟を結んでいたらしく、大友のキリスト入信以来、反目し、対立関係にあった。宗麟の子、大友義統は座主の跡目に弟を立てようと、使者をやって強要していた。一山衆徒こぞって反対して交渉は決裂、使者は殺される。
 1581(天正9)10月中旬、大友は大軍をもって彦山を襲い、鉄砲にものをいわせ、大講堂を占領し、戦闘1ヵ月にして彦山側は降伏した」と書いている。
 小石原と大友軍勢との関係についての詳しい史実は少ないが、『あさくら物語』(古賀益城編)にも「秋月氏と大友氏は対立し、天正10112日、大友軍はまた小石原・切寄に迫り、松尾・切寄等及び小石原町を焼き払った」と記されている。

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