小石原窯業史

 小石原村には、江戸時代から築かれた高取焼と中野(小石原)焼の窯跡が現在までに16基ほど確認されている。
 高取焼窯跡は、村中央部の鶴地区にある鼓釜床窯で、『高取歴代記録』によると「寛文5(1665)、二代高取八蔵父子が穂波郡中村(白旗山窯)より上座郡鼓村に移り住み窯所を開いた」とあり、その後、1704(元禄17)年ころまで筑前藩御用窯として茶道具を専用に焼いた窯が2基知られている。
 中野焼窯跡群は、村北部の皿山地区周辺にあり、『高取歴代記録』によると、「寛文9(1669)、白旗山から掛勤めで鼓釜床に来ていた初代八蔵の孫である八之丞が小石原の内中野に売買の新皿山が出来しころ、ここに移り住む」とあり、調査によって、このころの窯が一本杉地区の2基と推定されている。
 その後、『筑前国続風土記』によると、「天和2(1682)、始めて上座郡小石原村の南、中野と云所にて、国君光之公陶器を作らしむ。是は肥前松浦郡伊万里の陶工来り伝ふ。大明の製法にならへる也」とあり、当時流行の磁器を肥前の職人を呼び寄せ、肥前の窯を築き、肥前の技法を取り入れて焼かせた窯が、遺物・遺構から上の原窯と推定されている。
 しかし、こうして導入された磁器の生産も、原料の陶石やその他の問題があってか、『筑前国続風土記附録」によると「天和年中よりの磁製は止て、享保の末より高取焼にならひて民用に便する陶器を製せり。今陶家八戸、窯三所にあり」1と記されていることから、享保の末(1736)には磁器の生産ができなくなり、平行して続けられていた高取焼に習い、陶器を作るようになったということである。しかし、上の原窯の廃窯時遺物として1722(享保7)年記銘の陶管があり、享保の末では遅く、18世紀初めころの時期には磁器生産が終わったと思われる。それと同時に肥前の技法の優れた面を吸収し、高取焼の技法と融合して、さらに高い特色ある製品が作られるようになった。
 この頃の窯が池の谷窯・火口谷12号窯・十文字窯・金敷様裏1号窯で、18紀中頃には廃窯、その後、金敷様裏23号窯が築かれ、19世紀代にかけて操業したと思われる。また、調査されていないので詳細は判らないが、大明神窯がこの時期に操業していたようである。
 旧上組窯・旧下組窯の廃窯は1958(昭和33)年ころで、開窯年代は判らないが、かなり古くから同所で操業していたようである。最終時は両窯とも4焼成室を各4軒で管理運営していたようである。
 記録にみると、1798(寛政10)年に完成した『筑前国続風土記附録』には「今陶家八戸、窯三所あり」、1835(天保6)年ころの『筑前国続風土記拾遺』には「窯三所に在」とあり、今後、これらの窯を特定したい。
 現在、小石原村古窯跡群として釜床1号窯と一本杉2号窯が福岡県史跡に指定されている。また、一本杉2号窯は調査後に遺構上に当時の窯体を土で復元してミニパークとして活用している。

小石原皿山地区古窯跡分布図


 



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上の原古窯跡