上の原古窯跡

 
中野古窯跡 中野上の原古窯跡

 窯跡は小石原村大字小石原字中野
816-4に所在する。皿山地区南端の舌状丘陵の北斜面にある。
また村道天ヶ谷・宝ヶ谷線を挟んで西方
10mには火口谷12号古窯跡がある。
 昭和62年度に試掘調査を行い、物原と窯体を確認し、平成元年度に本調査を行った。 窯は、地形から推測すると胴木間と煙出しを欠失するが、10室の焼成室をもつ現存長38.7m階段状連房式登窯である。焼成室は胴張のプランを呈し、最大幅44.75m前後、奥行は火床を含めで3.24.2m前後である。奥壁は現存高で5080pと高く、この部分はトンバイを使用し、左右壁と天井は粘土で構築している。各焼成室の焚口は東側に造られており、物原ま丘陵東から北側の谷に広がっている。窯の周辺を広く調査することはできなかったが、覆屋を支えた柱の根石の一部を検出した。
 出土品には陶器と磁器があり、製品と窯道具がほぼ半々の割合で整理箱に800箱ほどあった。その内、9割強が物原で、窯本体からは陶器のみの出土であった。製品では碗・鉢・皿がほぼ8割を占め、他に杯・壷・甕・瓶・水注・香炉・仏飯具・播鉢・陶管などがあった。
 『筑前国続風土記拾遺』には、「天和2年、白磁器を製して、中野焼といいしを後に、その製は止めて、高取焼にならいて民用の諸器物を作る。」とある。中野(皿山)地区で磁器を多量に焼いた窯は上の原窯しかないことや、出土品の新しいものは高取焼のような陶器であることから記述の窯と思われ、操業開始は天和2(1682)ころで、閉窯は窯体内から出土した享保7(1722)年記年銘のある陶管よりこのころと思われる。この40年間の内には何度かの中断があり、その問に陶工の一部は日田の小鹿田窯や福岡の西皿山窯の開窯に関係しているようである。

   火口谷1号古窯跡

 
 窯跡は小石原村大字小石原字中野838に所在する。皿山地区南端の標高500m程の丘陵谷部にあり、谷を挟んで南方50mには京焼風陶器碗を出土した2号窯がある。 昭和63年に試掘調査を行い、物原と窯体の一部を確認し平成5年度に本調査を行った。
 窯は胴木間と10室の焼成室をもつ全長約42mの階段状連房式登窯である。焼成室は最小の1室は幅2.8m・奥行2.4m・火床幅0.8mで、最大の4室は幅4.9m・奥行4.0m・火床幅0.75mであった。各室の奥壁はトンバイが23段程度残っていた。また、砂床上面には天井や壁部分の窯体片が検出され、粘土で構築されていたことが確認された。窯尻背後から窯の西側に排水溝が巡らされており、窯の両側には直径4050pの覆屋の柱穴が検出された。
 出土品は、窯体内からは徳利・皿・碗・ひょうそくなどの製品が少量と胎土目・トッチミ・ハマ・火盾などの窯道具が大量にあった。物原からは皿・碗・鉢・播鉢・植木鉢・仏飯器などが大量に出土した。しかし、磁器製品の出土は無く、上の原窯(16821722)の後半に焼かれたものに酷似することから、操業は上の原窯で磁器焼成を止めてから始められ、一時期は平行して操業したと推定される。終煙は遅くても18世紀中頃と思われる。

火口谷1号古窯跡 火口谷1号古窯跡実側図

 金敷様裏13号古窯跡

 3号窯は小石原村大字小石原字中野743-2に所在する。皿山地区東側丘陵の北端に火の神様を祀っている金敷大明神のお堂があり、その裏にある。南方向50皿に2号窯と南東100m1号窯がある。
 3号窯跡は平成5年度に試掘調査を行い、全長約15mで胴木間と4焼成室をもっ連房式登窯を検出した。焼成室は奥行2.13.9m、幅2.63.4mで胴木間から窯尻側に焼成室が広がる扇形を呈す。碗・皿・鉢などの食器類を焼いた窯である。窯道具はハマ・トチン・火盾・サヤなどがあった。出土品は製品も窯道具もわずかな量であったが火口谷1号窯のものに酷似する。
 1号窯は未調査のため窯体の位置等も確認されていないが以前から畑を深く掘ると陶片が出ることから近くに窯跡の存在が推定されている。また、民家の横には小規模ではあるが物原の土手が確認されている。畑や民家の周辺から採集された陶片が整理箱に20箱ほどあるが、大半は徳利片であった。
 時期は碗・皿などの食器類を量産しなくなった18世紀後半から黄叩き瓶・行平鍋などが作られた幕末ごろと思われる。





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鎌床1号古窯跡