馬頭観音と祈願文

 
 福岡藩三代藩主黒田光之が江戸時代初期に預け、人前に出すことを禁じていたという馬頭観音がある。木彫、高さ約
40cm、三面六腎(顔が三つ、手が六本)の立像である。
 この像は、初め宿平筑前・豊前国境の境目観音として納められた。(境目観音は別名、馬頭観音ともいう)。境目確定から4年後の1705(宝永元)年、光之が豊前側に移された観音堂のかわりに寄進したものだ。木彫りの馬頭観音像は当時でも珍しかったし、すさまじい怒りの形相は参拝者を驚かせたことだろう。その位置が自領であることを示威する効果は予想以上であったに違いない。
 盗難の恐れがあるというので1708(宝永4)年、藩命で浄満寺に移された。寺では公儀預かりの大事な像として本堂奥に秘蔵したいたが、平成4年、傷みが進んだので九州歴史資料館に依頼して調査・補修したところ、胎内に納めた竹筒から一枚の紙片が現れた。
 紙片には黒田藩家老鎌田八左衛門の祈願文があり「国家豊農諸人廻楽武運長久子孫繁昌諸難除退 宝永元甲申暦秋818日筑前細臣鎌田八左衛門昌生敬白」と記されていた。
 八左衛門は光之に最も近い側近であり、国境争いの中心地点だった観音堂一帯の境界線引き問題の最高責任者であった。祈願文は、彼が光之の命を受けて観音像を建立、寄進したことを示すのか、彼自身の寄進なのか、または移転時に挿入したのか、それは国境紛争と何らかの関係があるのか、その他多くの解明すべき問題を後世に残している。

境目観音


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