皿山と宝珠石のある村

 
 
●古くから広く知られて   
民陶として全国に名高い小石原焼の、発端は、英彦山神社ゆかりの窯に始まると伝えられています。
土地の農民たちが、野良仕事の合間に焼いていたというのですが、小石原一帯が英彦山神社の神領の一部だったこともあり、また、小石原が英彦山へ通しる主要参道一部だったこともあって、当地の焼物は古くから、広く、人々に用いられていたものと思われます。

                    小石原焼

広範に愛された小石原焼に転機が訪れたのは、室町後期。
英彦山を中心とする勢カが豊後の大友勢と戦って敗れ、小石原一帯もざぴれて、小石原の窯は近くの村民の需要だけに頼って、細々と息を長らえます。そして、江戸時代。黒田三代藩主光之が伊万里の陶工を招き、小石原に窯を築かせたことから、この地に新たな歴史が刻まれてゆくことになります。これを契機として、朝鮮系の新技術が取り入れられ無彩陶器だけだった小石原焼にも釉薬が施されるようになったのです。

また、同じ頃、小石原に移された高取焼との交流も生まれ、小石原焼は一段と品質を高め、一方で昔からの素朴さを失なうこともなく、連綿と続いて、戦後の民芸プームの中で黄金時代を迎えます。
民芸運動の推進者の一人、バーナード・リーチの絶賛。プリュッセルでの世界工芸展グランプリ受賞。
通産大臣による「伝統工芸品」指定などを経て、小石原焼の声価が不動のものとなったことは比較的最近のことでもあり、よく知られるところです。

ところで、小石原の歴史で興味深いのは、先にも述べたとおり、ここが神領の一部でもあり、いわゆる英彦山道の一宿だったという事実です。土地の故老の言い伝えでは、明治の初め頃までは、この狭い盆地に宿が30軒もあったといい、三階建ての、山あいとは思えぬほどの立派な宿も幾軒かあったというのです。旅人1000人を収容できたというのですから、江戸期としては最大級の宿場だったといってもいいすぎではありません。この宿場に宿をとり、あるいは一服した英彦山参りの人々は、小石原焼を土産として買い込んだに違いありません。この道を通り英彦山を詣でた人々の中には、遠く肥前や肥後の人も多かったといわれていますから、自然、小石原焼は、その地の人々にもよく知られていたのではないかと思われます。

いま、小石原の声望が高いのは、バーナード・リーチによるものだとするのが通説ですが、じつは、すでにそれより以前に、このような事情が存在していたという事実もまた見逃せません。
小石原皿山の近くに、行者杉と呼ばれる天を突く杉木立があり、
それらは、行者たちが差し木をし、長い年月の間に、巨大に成長したもの。
皿山と行者杉。英彦山と小石原。世界的に著名な民陶の里の意外に知られていない歴史のーコマです。
ちなみに小石原の春と秋の民陶祭の始まりは、山伏の神事というのが、発足以来の伝統となっています。

            行者杉
  
●誰も見ぬ石               
岩屋
小石原のとなり、宝珠山村は、福岡ではすでに数えるほどでしかない村のひとつ。
それだけに、他の土地では見られない、ひなぴた味わいを随所に残し、村名の由来もまたなんとも大らかで、牧歌的なものです。

宝珠山村の一画に、岩屋山という急峨な山があり、ここには巨大な奇岩が幾つもそぴえ立っています。
そのうちの最大の岩の高さは、なんと54メートル。一方、この岩屋山には、岩屋神社という由緒ある神社があり、その社殿の奥深くに、宝珠石と呼ばれる不思議な石が祭られています。宝珠にも似た美しい形のそれは、隕石だとも語り継がれているそうですが、真偽のほどは定かではありません。
うるう年の10月19日の真夜中、神官と神社総代が目隠しをして、被せてある菰を七枚はぐり、新たに十枚被せる・・、というめずらしい神事も、いかにも、この素朴な村ではのもの。いずれにしても、この村の人々は昔から岩屋山に畏敬の念をはらい、宝珠石をそのシンボルとして敬い、その名を村名ともしてしまったというわけ。

岩屋山は、古くは、英彦山系をめぐる山伏の修行場の一つだったと伝えられています。
山伏の信仰が厚く、石にかかわる神事もまた秘密めかしくなってしまったのでしょう。
何しろ、真夜中に目隠しをして、「絶対に見てはいけない」というのですから……。
岩屋神社の縁起をひもとくと、その開基は古く継体天皇の御世だといい、英彦山を開いた魏の善正上人が、ここも開いたのだと書かれています。継体天皇といえば六世紀前半の天皇。しかも、宝珠山村には、岩屋山が開かれたのは英彦山よりも前だったとする言い伝えも残っています。
天台宗の盛んなる往時、岩屋山には壮大なる七堂伽藍が備わり、末社も十三社を数え、旧上座、下座、夜須の三郡の人々を檀那としていたといいますから、甘木・朝倉のほとんどが、この神社の信仰圏に含まれていたことになります。しかし、その社殿も、大友氏との争乱で、戦火にみまわれ、今は昔。現在残る社殿等は筑前黒田藩主綱政公によるもので、盛時と比べれば、数十分の一程度の規模でしかありません。

とはいえ、以上のような、なんとも厚味のある歴史を胸に、岩屋山を歩けば、不思議な感慨にとらわれます。
ここは、観光地として広く知られているわけでもないのに、ぽつりぽつりと年中訪れる人が絶えないというのも、
その言うに言われぬ、歴史がかもす独特の雰囲気のせいであろうと思われます。
すでに閉山となった宝珠山炭鉱の起源は、江戸後期。
こんな話も併せて、ある古老が教えてくれます。
「宝珠山村を歩いてごらん。飛ぴきりの歴史が、山のあちこちで隠れんぼをしとるごたるよ・・」


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