英彦山への道

  ●大根川を越えて

時代によって、多少のルートの違いがあり、また杷木方面から、廿木方面からといったぐあいに、幾つもの経路があったらしいのですが小石原を経て英彦山へ至る道を、昔の人たちは「英彦山道」と呼んでいました。英彦山へ続く道だから「英彦山道」、簡単にいえばそういうことなのですが、じつはその呼ぴ名には、ちょっぴり人間臭い、暖かい想いが込められているようです。

それというのも、英彦山道とは、もっぱら庶民が英彦山神社に参りするための道。そのために自然にできあがった道だったからです。江戸期、庶民に旅の自由はほとんどなかった。物見遊山、今でいうレジャー旅行などはもってのほか。例外として、信仰の旅だけが許されていた。伊勢参り、金比羅参りなどがそれである。そこで、自然にそれらは、実質的にはレジャーの旅ともなり、庶民にとっては、最高の楽しみの一つでもあった。英彦山参りは本来は五殻豊穣を願って行なわれ、農耕とのかかわりを強くもつ習慣ではあったのですが、やはり一面では〃楽しい旅〃でもあったようです。
大根川
英彦山へは、肥後や肥前からも参拝の人が集まり、もちろん筑後平野の各所からも多くの人が英彦山への道をたどったといわれています。甘木の街に、今も、肥前屋などといった屋号を残す宿がありますが、それらは、英彦山への道をたどる人のうち、もっぼら肥前の人々が投宿したのでその名があるともいわれています。また、甘木の南の佐田川は別名、大根川とも呼ばれていますが、この川についてはおもしろいエビソードが残っています。佐田川が大根川と呼ばれるのは、大根の収穫の時期、水量が減って川の流れが伏流水となり、川面の流れが消えてしまうせいですが、ちょうどその時期は、英彦山参りの季節でもあって旅人は労せずして川を渡ることができたというのです。

土地の人が、ちょうどこの辺が枯れるのだという場所の向こう岸には、昔、道者道といわれたという道も残っています。道者とは、英彦山へ詣る人のこと。土地の古老は言っています。
「道者さんたちは英彦山からの帰りに、私たちにも小銭をくれるのが慣習でした。だから、道者さんの通る季節は、とても華やいだ気分でした」

  ●坂下と黒川院
寺内ダムの西に、坂下という、文字通り坂の下の小さな集落があり、昔、ここの14〜5軒の家のほとんどは、旅館だったといわれています。この集落を抜けると道は、急坂となり、それは山を越えて、黒川呑吉という集落に通じています。ここは、かなりの難所だったので、多くの人が坂下で宿をとり、難所越えに備えたものだと思われます。
戦前までは、にぎやかだった、と、坂下の古老の言葉です。

黒川呑吉から、英彦山をたどる道からは、ちょっとはずれるのですが、黒川には、黒川院と呼ばれる英彦山座主の館があったことが知られています。英彦山皇系初代座主、助有親王の御座所だったところです。
今から、ほぼ650年ほど前のことで、建物などは残っていませんが、石垣や木影の小径などに、その面影がしのばれます。ちなみに、肥前からにしろ筑後平野からの各所にしろ、英彦山へ至る人々のほとんどは、甘木・朝倉地方のいずれかを経由しているというのは先にも述べたとおりです。

そこで、甘木・朝倉地方でも昔から英彦山参りは盛んに行なわれ、人々はその費用を調達するために、代参講を立てたといいます。つまり、講金を積み立てては、毎年代表者を数名だけ英彦山に送ったのです。そうやって送られた英彦山参りの人々の喜ぶさまが浮かんできます。黒川から小石原へ至る峠は、車で越えてもかなりの難所。それを徒歩で…。甘木から英彦山まではほぼ十里、40キロ。甘木からの人々は小石原で一泊することもあったといいますが、ほとんどの人が一日で英彦山へたどりついたといわれています。
健脚のエネルギーは、「旅のよろこぴ」だった。英彦山道という言葉には、どこか楽しげな響きも感じられるのです。
 英彦山権現


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