秋葉宮 |
所在:下池田 |
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江戸時代末期の安永年間、打続く凶作と悪疫流行に人々の餓死病死が相い次いだ、旱魃、洪水、疫病、天然痘と次々に押し寄せる苦難と戦いながら人々はあえぎ続けた。 苦しいときの神だのみ、荒れ狂う天然現象に、病魔におびやかされる庶民はひたすら神に祈るほかなかった。なんでもよい祈る対象が欲しい。 すき腹をかかえ、資材と労力の奉仕をつみ重ねて小さ祠が作られていった。安永2年(1772)には息引神が、安永十年には片宗稲荷や立聞杜、藪の天神が、そして松末本村に天溝宮ができたのは安永9年であった。 秋葉宮は誰がどうして勧請したという記録はないが、安永7年6月14目、杷木に大火がおこっている。まのあたりに見た火の恐ろしさから、火の神さまを祀ったのではなかろうか。 「古事記」によると伊弉諾、伊弉冊の二神が大八州を生み、諸々の神々を生んでいって最後に火の神、カグツチの神を生む時、その出口が焼けただれて伊弉冊命が死んでしまった。このカグッチの神はヤギハヤオノ神ともいい、秋葉宮の御祭神である。 秋葉宮は安永9年に建てられ、5年後の天明5年に拝殿が建てられた。石の鳥居は寛政11年(1799)に立てられた。 秋葉宮周辺は今、公園として整備されてあり、桜、つつじの名所として春から夏にかけて遊歩者の足は絶えない。また毎月十八目の例祭には火を扱う婦人たちのお詣りが多い。 |
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秋葉宮より杷木町・筑後川を眺める。 |
松末天満宮 |
所在:松末本村 |
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松末天満宮は昔から、田神杜として埴安命を祀ってあったが、安永9年(1780)の夏、疱瘡(天然痘)が大流行し、たくさんの人が死んでいった。そのころ、庄屋井手実直は、医薬も叶わぬこの難病を、神の力にすがり収めようと、折柄仏教一本にこりかたまっている村人たちの反対をおし切って、大宰府天満宮に参籠祈願をこめて、村人たちの危難を救ったので、それ以来村民挙って天満宮を奉祀することになった・。 こうして御神体の道真公の尊像を造り、田神社に仮安置しておき、寛政7年に村民総出の奉仕によって社域を拡め、新たに神殿を造営してこれを主神とし、今までの田神社と八幡宮を相殿として祀ることになった。 この三神は本村、真竹、石詰、小河内、中村、乙石の総鎮守である。三間四方の拝殿は明治23年に建てられたものであり、二間に三間の神殿は明治41年に屋根の葺き替えをしている。祭礼は年に三度あり、産徒から選ばれた36人の供祭人が祭礼をとり行っている。明治10年ごろまでは野津手八幡宮の祭礼に毛槍、鋏筐等のお供を出していたが、その後参加していない。 |
正信天満宮 |
所在:松末正信 |
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天明2年(1782)凶作と悪疫流行に苦しむとき、村の人たちの努力によって大宰府天満宮を分祀勧請したもので、神殿は二間四面のサヤ堂の中にあり、現在のサヤ堂は明治41年に建て替えたものである。 文化11年に建てられた石の鳥居と天明4年奉納の石燈籠がある。なお境内に金木犀の大木あり、県の文化財に指定されている。正信附近は星丸ともいわれ昔、ここに星が降ってきたので星丸の地名ができたという。隕石の落下地点でもあろうか、近くに北斗星社が祀られてある。 |
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金木犀 県指定天然記念物 |
木犀は木犀科に属し金木犀・銀木犀などの種類がある。普通観賞用として庭園に栽培される。11月頃白色もしくは黄色の小花をつけ独特の芳香を出す。正信天満宮の木犀は、根廻り2.10m、高さ15m、枝は南方に10m・北に550m、東に8.5m、西4.6mと言う巨木で樹令も150〜60年以上に達すると思われる。 この花が満開のときは、星丸村一村にその芳香が漂ったと一言うことである。(星丸村は現在の獺の口、正信・池の迫、立の四部落でかなり広範囲である。)見事な銘木である。この正信天満宮が建立されたのは、天明2年(1782)で約200年前に当るが、この木犀もこの前後に 植えられたのではあるまいか。 |
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金毘羅神社 |