社記によると、宝満宮の杜域内に金毘羅岳という所あり、元文のころ、社司小野播摩がこの岩の名に基く神さまをお祀りしようと、探し求めて四国讃州中の郡象頭山に行き、金毘羅宮を分祀し奉ることを乞うたが、これは天下に唯一か所の御神ゆえ分祀はできない、しかしこれをやるからその所に蒔いておくように、と一握りの御撰米を戴いて帰り、金羅岳のまわりに蒔いておいた 或る時、筑後から今泉村、清宗村の人たちが来て、このあたり毎夜五色の雲がたな引き、不思議に思っていると昨夜、この山に金毘羅の神が祀ってあるからお詣りせよ、との夢のお告げがあったので誘い合わせて来たという。早速小野杜司同道で金毘羅岳に登って見ると、いつか蒔いた御撰米が生え青々とした早苗になっていたという。
それ以来農家の人たちの参拝者が相つぎ、元文4年(1739)には拝殿が建てられ、続いて宝暦12年には石の祠と石の鳥居が建てられた。
そして寛政4年2月、今までの拝殿が狭いからと新しく建て替えられた.が、これが寛政13年に焼失した。今の拝殿は文政6年に建てられたものであろう。この杜は「白なまずの人が総の絵を書いて奉納祈願する.と、不思議になおる」といわれている。
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