田代豊前坊神社

  田代神杜 

田代神社図

上図 中央部上方に橋の絵がある

本 社



神殿一丈入二間、拝殿二間三聞。石鳥居二基。祭礼1114日。奉紀深江吉左衛祭る所は豊前坊なり。杜家に伝ふる所は、正保年中、深江正貞(吉左衛)といふもの、神を尊み、初て彦山竹台の山より移し祭れりとぞ。垂跡天照皇大神、本地大日如来なりと云。
 古より山神の叢祠さりて、祭紀する人もなく、破壌しけるに、深江氏、杜を再興せりといふ。正徳の末より、享保のころに至り、遠近の人、詣来る者たへず、杜頭もいよいよ壮麗をまし、祠人も豊饒なりしが宝暦の末より漸衰へ、詣来る人も稀なり。しかれども辺土には珍らしき社なり。社領五石、秋月邑君より寄附し給ふ。深江氏、神につかふまつるに念珠をつまぐり拝せり。然れば、両部の法にて仕ふまつれるなるべし。縁起あり。其記せる所、諸国天狗の事をあげ書せり。杜撰なり。神杜は東に向ひ山によりて建り。頗好き境地なり。(附録)

石祠なり.。石鳥居一基 大日窟といふ。この所の事、社記に詳なり。(附録)

   豊前坊社

 所祭、豊前国田川郡彦山権現なり。是を豊前坊共いふ。正保年中に、当村の住人、深江吉衛門正貞といふ者に神託あり。はじめて当社を勧請す。寛文年、邑君より神殿をあらため造立ありて、社領を七石寄附し給ひ、且、吉左衛門にも月俸を賜へり。其霊験ありしかば、遠近より祈願の為めに詣来る者市をたせしかぱ、宝暦の頃より、諸人の群集漸滅せしといふ。祭礼は11月14日、奉紀の杜人即、深江氏なり。元祖正貞より七代孫なリ。世々、両部の修法にて、吉田家の流にはあらず。(拾遺)

  ☆ 豊前坊と弾丸
 柳ケ浦に入水した平清経の子孫の深江吉左街門正貞は、上秋月村江川で医者をしてゐたが、彦山の豊前坊の神が移って、不思議なことがあるといふので、秋月侯は田代某に命じて審査させた。田代は君命によって、彼に通力の、有無を試みるために、深江に発砲するに当たり、一つ玉と偽つて実は二つ玉をこめて打つたので、彼は怒つてその玉を自ら両手に受留めた。田代は辛うじて命を助けられて帰ったが、この不恩議なことが伝つて、豊前坊は繁昌するやうになつた。(筑前伝説集)



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