栗山神社




粟島(淡島)

☆淡島宮  【望春随筆】宝暦の姶頃、時津宅右エ門と云ふ者あり。至つて富饒にて学頭谷辺下向道辺皆同人の地面也。宇右エ門少し愚なるにより相続ならず、浪人の躰になり、其実父与助より地面皆譲り受たれ共、年々売払又人にだまされ取られ、老年には聊か地面を以て曲りなりに手習の師をし、又竹紬工等いたしかすかに暮しける。仁鳥に手習子あり。同所に12年住居事も有となり。又石紬工も少し心得たるにや、仁烏住居の時、石に淡島大明神と彫付、界の松の傍に建たり。宅右工門死去後は誰かまふ者もなく、草木生茂り石も見へず、松の大木の一本有のみ也。
 然るに寛政九年の頃、誰かはしらず是に立願をなす者あらあら有。.116月に至りて、霊験日に新也と頻りに流言し、、わづか十日計の間に群集夥敷、御家中町々の老若男女、此方の門前を通る事恰も鎮守の宮日に似たり。道の向にはかき出を拵、京店くわし店をかざり、賑成事いわん方なし。此時は宅右工門死後、其子利八と云者の代也。何某の寄進にや、石の龕建。二三十目の間参詣行もきらず有しが、夫より地踏たる参詣となり、店もひけ、12年の内に、拝殿石垣手水鉢等追々に出来備はり、今は年古き社の様に成たり。(下略)
  淡島大明神は女神にして、腰より下の病に利玉ふと云大成俗説なり。



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