床島堰と長田湿田


床 島 堰

●新田と湿田

正徳二年、1721年といいますから、江戸時代のほぼ半ば頃、筑後川に一つの大きな石堰が築かれています。床島堰と呼ばれるそれは、黒田藩のとなりの久留米藩が築いたもので、その結果、同藩は1500余町の田を開くことに成功しています。
 ところが、この井堰は、福岡領下下座(蜷城地区)一帯の人々にとっては全くの困リ物。その井堰によって田の排水が妨げられ、長田村など21ヵ村、400町以上もの湿田が発生することになってしまったのです。
 そのために、福岡黒田藩と久留米藩が激しく対立。福岡側の抗議をうけて、久留米側では番屋を置き、鉄砲数丁を常に用意していたというほどです。
 松岡九兵衛は、そんな折に選任された長田村の庄屋。九兵衛はただ対立する人々とは全く異る発想で、この問題に取リ組みます。
 相手方はすでに田を開いている。その結果、藩こそ違え自分たちと同じ農民が助かっている。だからまず井堰の存在は認め、新たに自分たちの側の田の湿抜き工事をすればいいではないかと九兵衛は考えたのです。
 九兵衛は菱野村の庄屋犬内弥平と協力、村人たちの賛同を求め、行動を開始します。湿抜き工事実現のための条件を整え、工事の実施を藩に訴え、結局、藩はそれを許すことになったのです。九兵衛の熱意に動かされた藩は、意地を捨て、久留米藩領内の工事費用の一部をも支出することを決定したといいますから、大変な快挙というべきでしょう。
 じつは、九兵衛は藩に願い出る前に、久留米側の庄屋の幾人かとも親交を結んでいます。彼らは彼らで、藩政府を動かしたことはいうまでもありません。

     豊かな風景

長田湿田

いわば民聞外交が効を奏したかっこうで決まった湿抜工事は、文政八年、18252月に始まり、10月に完成。村人総出で、新たに幾筋かの川を堀り、排水を良くしようというわけですが、難問も続出。その最大のものは、佐田川や既存の用水とほぼ直角に交差することになる新たな川の流れを、どうやって川の向に導くかということでした。
 現在、甘木市蜷城の一帯で一般に長田湿抜溝、暗渠などの名で知られる構造物が、九兵衛たちの思案の結果の解決策、石で樋を作り、既存の川の下をくぐらせてしまったのです。
 長田湿抜を説明する『甘木市史』の一節は、次のような言葉で終わっています。「…湿抜工事は、その後も九兵衛の子九平、その子九一郎と、松岡家三代の手によって、明治に至るまで受け継がれていった」と。



松岡家墓所



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