正慶2年(1333)12月、後伏見天皇第6皇子長助法親王が彦山の座主(ざす)として入御され、その館を上座郡黒川村(甘木大字黒川)につくり「黒川院」と称しました。 この長助法親王(助有法親王)から舜有法主まで(天正15年)14代の座主が黒川に館を構えました。
15代の忠有法主以降館は彦山に移され、27代の教育法主まで続いています。
消失した廟所
14代座主の舜有法主の墓は、黒川字宮園の迫にありますが、こ.れ以前の座主の墓は彦山でも見つかっておらず、黒川に存在すると考えられています。しかし、今のところ見つかっていません。これに関しては次のような説があります。
福岡藩主黒田長政は、豊前在城当時から彦山信仰の厚い人であった。その長政が福岡に移り、その後は細川氏が豊前域主となったが、彦山に対する我がものとばかりのふるまいと、細川氏の恩義に引っかけられた彦山側の態度に長政も忠之(長政の長男)も立腹し、黒川院廟所の焼討ち堀埋となったのではないだろうか…
座主と秋月氏との関係
舜有━━━娘
|━━昌千代
秋月種実━種長 |
忠有
(日野輝資の3男)
岩屋権現
彦山修験道の即身即仏を念ずる参龍修行場として「彦山流記」では49か所の霊窟をあげており、黒川の岩屋権現もその1つと言われています。
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