実は、「ミナギ」という村は、佐田川を下ったところにもうひとつ存在した。合併前の蜷城(ひなしろ)村である。蜷城という地名は、蜷(河貝子・ニナ)によって城を築いたという、神功皇后の伝説に由来する。この村は、佐田川が筑後川に注ぐあたりに位置し、渡しによって筑後に通じる要衝であるが、たびたび洪水にみまわれてきたところでもある。
ふたつの村は、ともに旧下座郡に含まれ、佐田川の中流・下流の位置関係にある。また神功皇后がかかわる相通じる地名をもつ。共通する点はそれだけではない。ふたつの村には美奈宜(みなぎ)神社という同名の神社がそれぞれに鎮座しているのである。
ふたつの美奈宜神社は、現在まで惣社として下座郡内で信仰圏を二分してきた。また中・近世においては、秋月氏や黒田氏など地域の領主から厚い尊崇をうけた神社でもある。当然、郡内の他の神社とは一線を画すべき大社である。
平安時代につくられた『延喜式』の神名帳には、「美奈宜神社三座並名神大」と記されている。いわゆる式内社である。式内社は、『延喜式』が編纂された平安時代初期の時点で、官幣あるいは国幣にあずかっていたとされる大杜で、その中で、とくに創始が古く、由緒正しく、霊験あらたかなものには、名神大と注記されている。その式内社美奈宜神社を比定するに、下座郡内において、ふたつの美奈宜神社以外には妥当なものは見当たらない。ただ問題は、ふたつあることである。ふたつのうちのどちらの神社が式内社なのか。江戸時代より続けられた論争には、いまだ結論が出ていない。
式内社論はおくとして、ふたつの美奈宜神社は、下座郡の宗教的社会の中心である。それ以上に、社会全体の中核的な存在であるとさえいえそうである。そして、今でも信仰やまつりを通して、地域社会の民俗・文化に深くかかわっている。
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