1.甘木市の概要

甘木市は福岡のほぼ中央部に位置し、国道・鉄道によって、拠点都市福岡と結ばれ、また大分自動車道甘木ICを利用すれば、九州各地と行き来も容易です。
北九州市・福岡市に次いで3番目に面積が広く、北部から南部にかけて山脈が連なり、これらの山脈を源とする河川が南西部の肥沃な穀倉地帯を潤し、甘木・朝倉地方の風景は優しさに満ちています。どこまでも続く豊かな田園、たわわに実る果実。大らかにうねりゆったりと流れる九州一の大河筑後川へ注ぐ、幾筋かの美しい川。
民陶の里小石原や、小京都秋月をふところに抱く山々と、万葉の歌の舞台にふさわしい高原。そして、太平野の中の鎮守の森などあり、豊かな歴史と詩情の里です。
のんびりとこの地を歩いてみれば、鎮守の森や城下町の石垣の影から、思いがけないほどの奥深い歴史が時折、顔を覗かせます。
邪馬台国・甘木朝倉説のロマンにあふれ、国指定史跡公園「平塚川添遺跡」など数多くの古墳や新旧の歴史に恵まれています。


2.甘木(あまぎ)の地名・甘木山安長寺

甘木の地名は、甘木安長が建立した甘木安長寺の山号「甘木山」によると言われています。(安長寺縁起)
 甘木安長は、後醍醐天皇の荘園管理の為に南都からきた人物とされていますが、天平18年の法隆寺資財帳には法隆寺の荘園が全国46箇所記載されており、これらの荘園は、国司(地方長官)の管轄外であったことから、荘園を所有する権門家や社寺は、これを統轄する管理者を地方に派遣する必要がありました。
荘園管理のため地方についた人々が心がけたことは、赴任した荘園地の人心をおさめることでした。そのため神社仏閣を創建する習わしがあったようです。
 さて、安長の父安道は、子の安長が幼いころ天然痘を患い、これを治すため平素から信仰していた生駒郡矢田の金剛山寺に祈って、その霊験により治癒することが出来ました。
安長は、領地であった筑前夜須郡に移り住み、幼児の霊護に報いたいと考え、金剛山寺から地蔵尊を拝請し、法相宗の大寺院と門前町を創建したのです。

 こうして甘木の地名と甘木山安長寺の山号は、この甘木遠江守安長の名の由来することになりました。
 なお、創建時は「法相宗」(法相宗寺院は奈良興福寺・法隆寺・興福寺などがある)でしたが、正安2年(1300)に禅宗(臨済宗東福寺派)に改宗しています。
 したがって、創建の年代は矢田地蔵尊創作の弘仁7年(816)から、改宗した正安2年(1300)の間と考えられており、これを最絞り込むと、本堂の掲額「大願王」の揮毫者が寺伝のように唐僧柏岩とすれば、唐の滅亡(延喜7年・907)以前との推定が成り立ちます。
  ご本尊は奈良時代満慶和尚の手になる「延命地蔵菩薩」で、子授け・安産・育児・健康・学業・受験など子供の成長に関する一切の守り本尊として崇敬されています。



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