長屋門

            県指定有形文化財

  長屋門(内馬場裏御門)


 江戸時代の建物で「御館門(おやかたもん)」と称され、藩主のお館への、通用門でした。すぐ南側の黒門とともに、秋月城の面影をしのぶ貴重な建造物です。また、古城にふさわしい建物・石段・石垣が歴史の深さをかもし出します。
 切妻桟瓦葺・2間半の通りをはさんで南側7間・北側6間。嘉永3年(1850)の建築。
秋月城の面影を最も伝える遺構です。



     稽古館
 稽古館跡

江戸時代の中頃になると、全国諸藩において藩士の教育をおこなうために藩校が開設されるようになった。秋月藩では、安永4年(1775)に稽古亭と呼ばれる学問所が野鳥新小路に開設され、軍学指南の遠山半外と儒学者の原百助が教授に任命された。ついで天明4年(1784)に講堂と武芸所の大拡張がおこなわれ、名称も稽古館と改められた。
 このときの拡張は八代長舒の襲封運動と軌を一にすることから、「此学館実二君上御入国前ノ御待モウケト相聞タリ」『澹軒漫録』との藩の意向がうかがえる。
 長舒は叔父上杉鷹山を畏敬し私淑するところ厚く、藩の学問の振興に極めて積極的であった。新装成った稽古館に満悦し、目ら幾度も学館に足を運んで藩士の勉強ぶりを見分し激励している。また、福岡から亀井南冥(徂来派)等を、京都から小川晋斎(崎門派)を招聘して講義をさせ、長舒も臨席して聴講している。
 稽古館と藩学が最も盛んになるのは原古処が教授に就任してからである。原古処は亀井南冥の高弟として若くして著名であったが、彼の名声が高まるにつれて藩内は勿論他国からも古処の門を叩く儒生が増えたので、長舒はとくに今小路に屋敷を与えて私塾古処山堂を開かせた。また、文化四年(1807)には長舒が二子を連れて原古処の屋敷を訪問するなど、長舒の学問愛好の精神と原古処への異常なまでの恩寵がわかる。
 文化三年(1806)の大火で稽古館も焼失し九。文化七年(1810)に場所を杉ノ馬場通りに移して再建されたが、文化八年の政変によって原古処は退役させられて稽古館は閉鎖された。文化三年(1816)になって稽古館は再開されたが、この頃の藩政の事情から福岡藩の学風(朱子学)を押しつけられることに反撥して、藩士たちの好学の気風は失せ秋月の学問は衰退していった。



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