眼鏡橋

           県指定有形文化財 昭和31年4月3日

春の眼鏡橋  野鳥川

 秋月御城下を通る街道は、松崎宿より野町、秋月を経て八丁峠を越えて千手から小倉に至るいわゆる秋月街道(豊前街道とも云う)である。この道は肥後、肥前、筑後の諸大名も参勤交代で通った北部九州の幹線道路であったが、八丁越が筑前第一の険路であったことから、後に冷水峠が開かれると山家宿から冷水越えして飯塚へ出る街道が主流となり、秋月からは白坂峠を越えて飯塚宿に出る道が一般的となった。
 秋月城下町の入口の野鳥川に架かる橋は本寿院橋と呼ばれる板橋であった。しかし、ここは街道の要所にあたり人馬の往来が多くて橋の損傷も激しく、20年に1回ぐらいの間隔で架け替えなければならず洪水にも弱かった。
 福岡本藩の代に変わりに命ぜられた長崎警護のおり、石橋群を始めて見てその頑丈さに感銘した秋月藩8代藩主黒田長舒(ながのぶ)は、秋月城下野鳥川にかかる木橋が流されたり腐ったりしてその維持費に頭を痛めていたことから、このような石橋の建造を考えていましたが、資金の面かで見合わせざるを得ませんでした。
 文化2年になると家老宮崎織部などの進言もあり、架橋を決意します。文化4年、2年を費やしてほぼ完成していた石橋ですが、無残にも轟音とともに合えなく崩壊してしまいました。 しかも、藩士長舒(ながのぶ)も急逝します。

       石材に頑強な 花崗岩 を使ったためか、                 長崎の石工名人たちも一度は架橋に失敗! 

 それから2年後文化6年(1809)秋、再度着工され、翌文化7年10月23日9代藩主長韶(ながつぐ)が見守る中、石橋は完成しました。

野鳥川の石橋、
オランダ橋、城
下町の入口、番所もあって、かねの手の道。
 その昔、流失しない橋を

けたい藩の悲願を果たした眼鏡橋、「織部くずれ」の忠実を秘めた秋月の橋。  

眼鏡橋落慶

 このアーチ石橋は、架橋年代の古さとともに、他の石橋にない数々の特徴を持ち、国指定の価値があると言われています。
 ○他の橋が加工しやすい安山岩や砂岩を使用しているのに対して、秋月目鏡樹固  い花崗岩(御影石)を使用。
 ○洪水対策として道路よりも高く架けた。(したがって、まず石段を登って橋渡  るという構造。現在は石段の部分は埋められている。)
 ○川床に江戸時代の石畳が今も残されている。


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