寛永14年(1637)10月、肥前国島原のキリシタン農民が、領主松倉氏の過酷な宗教弾圧と重税に抵抗して蜂起し、これに同調した天草の農民や浪人を加えて37000余人が、「神童」天草四郎時貞を総大将に奉じて島原城を襲撃した後、有馬の原城に立て籠もった。これを知った幕府は板倉重昌を追討の上使に任じ、九州の各藩から兵を集め2万余の鎮圧軍を派遣した。板倉重昌は幕府軍を指揮して原城を攻撃したが、一揆勢の抵抗は予想外に強くて幕府軍は多くの死傷者を出して苦戦した。
キリシタン一揆の強力なことに驚いた幕府はあらためて老中松平伊豆守信綱を上使として島原に派遣した。後任の発令で責任を感じた板倉重昌は寛永15年(1638)の元旦に無理な総攻撃を行うが、幕府軍の各隊の足並みが揃わず大敗北におわり、重昌は一揆軍の銃弾に撃たれて戦死した。
板倉戦死の報に接した幕府は、1月12日九州の諸大名に島原出陣を命じた。江戸在府中であった秋月藩主黒田長興は、前年の11月に幕府より帰国を命じられて国許に帰り、出陣の準備を整えていた。この年正月3日の馬揃えの式は出陣の予行演習であったといわれる。
出陣命令を受けた長興は、1月19日酷寒強風のなか凡そ2000兵を率いて秋月を進発した。隊列の順序は『長興公行列の次第』によると、先陣が首席家老宮崎織部、中軍が総大将黒田長興、後軍は家老吉田斉宮助、殿軍は家老田代外記で、先頭が弥永の一里塚を過ぎても最後尾はまだ秋月の勢溜りに留まっていたといわれる。
小川碩翁の『島原一揆談話』によると、「秋月の総勢2千余人、そのうち馬乗りは120余人であった」と記されている。当時の軍役は100石につき三人といわれているから秋月藩五万石では総兵力1500人というところであるが、それを2000人以上も動員したのは、幕府の覚えをよくするための秋月藩の思惑がうかがえる。 秋月藩の軍勢は6日目の1月25日に有馬に到着して陣地に入った。
原城攻囲陣のうち秋月藩の陣地は福岡本藩の右翼を固め、原城の南端の天草丸に対峙する地点であったが、ここは前方には泥深い塩入の川と塩浜があり右手は海で、敵の銃弾から身を隠す物がなく進撃には極めて不利な所であったらしい。
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