12.林流抱大筒
           甘木市指定無形文化財


 明治9年10月熊本神風連の乱に呼応して挙兵した秋月党は、豊津で友軍と合流し、萩に向かおうとしましたが、官軍に敗れ秋月に退却します。
 当時秋月党砲術隊長中野五郎三郎は、隊長の今村百八郎などとともに最後まで奮戦しますが、傷つき、縄田家(現嘉穂町)にかくまわれました。そのお礼として持っていた大筒を贈り、林流砲術を伝授しました。
 以後、林流抱え大筒は縄田家において代々受け継がれ、その後昭和46年に伝承者の縄田勇造氏を迎えて秋月に保存会が発足しました。

新年 抱え大筒  大  筒



 文政12年(1829)の「武芸軸帳」には秋月藩の武芸諸流が記されていますが、砲術は磯流・高野流・林流・久佐流・河野流・吉田流・陽流・若松流・板倉流があったとされています。しかし、現在残っているのはこの林流のみです。
 林流抱え大筒保存会による大筒の披露(村雨 霞 浮舟 稲妻の4型)
1月成人の日 4月秋月春祭り 9月秋月観月会
 島原の乱でも使用されたというこの大筒は、長さ1b、重さ30sで、100包玉、あるいは、棒火矢を使用する火縄銃。
 一人で抱えて発射することのできる最大の銃砲、言い換えれば大砲に限りなく近い鉄砲と言えます。実戦では城門城壁の破壊焼討ちに威力を発揮し、山野にとどろく豪壮な響きによって人馬を驚かせました。


 筑前小京都秋月城下町の
月はひときわ美しい。秋月
氏、黒田藩を語る観月会。
中秋の風にさそわれて、月
見の宴。城下町秋月の子供
達の“ふれあい太鼓”伝承
光月竜太鼓。抱え大筒の轟
音で幕開け、名月皓皓、虫
の声。出番待つ。

 光月流太鼓   観月会   林流抱え大筒


13.光月流太鼓
           甘木市指定無形文化財

 寛永元年(1642)福岡藩士黒田長政の三男長興が秋月に入封のとき、家臣(警固精之進といわれている)が、ある満月の夜に月光に照らされて打った太鼓の桴の陰から編み出したとされる曲打ちであす。「月光」の名は、藩主長興の御意を得てつけたもの。
 山鹿流陣太鼓の乱れ調子を基礎としていると言われ、一の桴(流れ星)から十の桴(月の光)までを陰陽の桴で打ち分け、桴に剣を含まず、規定に相違なきことを硬く戒めています。
 昭和43年、江川ダム建設に伴って実施した江川地区の緊急民族調査の際に伝承者が発見され、その後、各方面の努力によって秋月中学校のクラブ活動に取り入れられて保存がされるとともに、昭和60年には地もと秋月の婦人会が「秋鼓会」を結成し、保存されています。


     毎年4月の秋月花祭り、9月の秋月観劇会で演奏を聞くことができます。宴席で打つことは禁じられており、必ず宴の前に披露されます。

観月会

1の桴  流れ星(人の出生)
2の桴  前結び(人が世の中に踏み出す)
3の桴  さざ波(人生は海に浮かぶ小船の如し)
4の桴  死 − 打たない
5の桴  1つ星(人は神を拝む定め)
6の桴  2つ星・夫婦星
7の桴  乱れ星(人生の七転八起)
8の桴  回り星(人生の病災を逃れる)
9の桴  満月(人としての悪心を投げ改める)
10の桴  月の光(夫婦仲良く無事息災に暮らす)



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