14.日本最後の仇討ち


秋月藩執政の臼井亘理(うすいわたり)は、藩はじまって以来の大極流の軍学に対し、足軽の新銃隊(福岡本藩に習った様式兵制)を組織しました。
 これに怒った「干城隊」と称する青年士族グループが臼井亘理宅に押しかけ、妻もろとも斬殺しました。(明治元年《慶応4年・1868》5月24日早暁。妹のつゆ3歳も負傷)
 長男六郎(当時11歳)は、祖父と別室に寝ていて難を逃れました。このとき「稽古館」助教の中島衝平も斬殺されました。
 19歳になった六郎は、直接父母に手を下しした一瀬直久(旧名山本克己)を追って上京します。
 一方、一瀬は司法省に入り、官吏の道を歩んでいました。六郎は苦難のすえ、明治13年12月17日東京上等裁判所(現東京高裁)判事に出世した一瀬を旧秋月藩邸内で(京橋の鵜沼不見人宅)で、父遺愛の短刀を用いて刺殺しました。(六郎23歳)明治6年の仇討禁止令後の出来事で、世に“日本最後の仇討ち”と呼ばれました。
 六郎は、明治14年9月に終身刑を言い渡され服役していましたが、明治23年大日本帝国憲法公布により大赦の施行で仮出獄し、大正6年9月に亡くなりました。享年60歳。秋月「古心寺」に父母と並んで眠っています。



古心寺

臼井六郎の墓  東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の歌碑



歌碑  秋月「古心寺」

 「かくはしきその名を千代にのこしけり身はあたなみにしつみはつとも」                  東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)
                    (1833−1912)

  ※    仇討ちの全貌は、その翌月から3か月にわってた刊行され「月     夕(ふゆもみじつきのゆうばえ)」でに実録風に報ぜられ、セン     セーショナルな反響を呼び、また、川上音二郎も明治26年と2     8年の2回「臼井六郎」を上演しています。
       亘理を殺害した干城隊から後年秋月の乱を起こしたものが多数出た     なか、新時代に目覚めて裁判官を志した直久に対する評価もあり     ます。



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