秋月藩執政の臼井亘理(うすいわたり)は、藩はじまって以来の大極流の軍学に対し、足軽の新銃隊(福岡本藩に習った様式兵制)を組織しました。
これに怒った「干城隊」と称する青年士族グループが臼井亘理宅に押しかけ、妻もろとも斬殺しました。(明治元年《慶応4年・1868》5月24日早暁。妹のつゆ3歳も負傷)
長男六郎(当時11歳)は、祖父と別室に寝ていて難を逃れました。このとき「稽古館」助教の中島衝平も斬殺されました。
19歳になった六郎は、直接父母に手を下しした一瀬直久(旧名山本克己)を追って上京します。
一方、一瀬は司法省に入り、官吏の道を歩んでいました。六郎は苦難のすえ、明治13年12月17日東京上等裁判所(現東京高裁)判事に出世した一瀬を旧秋月藩邸内で(京橋の鵜沼不見人宅)で、父遺愛の短刀を用いて刺殺しました。(六郎23歳)明治6年の仇討禁止令後の出来事で、世に“日本最後の仇討ち”と呼ばれました。
六郎は、明治14年9月に終身刑を言い渡され服役していましたが、明治23年大日本帝国憲法公布により大赦の施行で仮出獄し、大正6年9月に亡くなりました。享年60歳。秋月「古心寺」に父母と並んで眠っています。
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