11.秋月の乱

大筒、音の豪壮さは城下町秋月の誇り

 征韓論をはじめとする政策の対立、西洋文明の輸入への憤慨、士族の処遇への不満、家計の窮迫等で不平をいだく士族は全国各地にいました。
 秋月では士族を中心に幕末の攘夷思想が尾を引き、新政府の政策を西洋かぶれとし、政権打倒、外圧排除を主張していました。
 こうした中・・・
   明治7年(1875)江藤新平、島 義勇ら佐賀の士族が挙兵 佐賀の乱
  
 明治8年(1876)4月政府は小倉に歩兵第14連隊を新設
   明治9年(1877)3月廃刀令→かっての身分階級につながるものは士           族の称号のみとなってしまう。
   同年10月24日熊本神風連(敬神党)蜂起、翌日敗退
   同年10月27日今村百八郎を隊長とする秋月党が挙兵
     中心人物・・宮崎車之助  磯  淳  士岐 清  宮崎伊六           益田静方  白根益男  白根信太郎  平江親雄           牟田止戈雄       (益田静雄供述書より)   田中天満宮、西福寺(現在は廃寺)に集合、甘水の明元寺で警部穂波   半太郎を斬殺。(日本初警官殉職)
         27日夜猪野膝 → 28日油須原 → 29日豊津                           政府軍(小倉鎮台兵)                        と交戦                               秋月党 死者 17人                            負傷者 7人   ※    士族が百姓兵と侮っていた軍隊は、性能の優れた兵器と銃制され      た戦闘動作で、旧式な武装の秋月を圧倒しました。
         (政府軍の戦死者2人のうち、一人は三奈木荷原出身)
      30日 城井谷を上って彦山方面へ敗退→小石原→江川谷→栗          河内
      31日 終日軍議 解散決定

           自首者も出て、解散時には挙兵当初の四分の一程度にな          った。
         磯 淳  宮崎車之助  士岐 清  戸原安浦  
         戸波半九郎  宮崎哲之助  磯 平八の7人は自決

           今村百八郎ら27人は古処山を経て秋月に下り、辻の学校を        襲撃→ 三箇山に潜行 → 11月24日今村百八郎逮捕
        12月3日 今村百八郎 益田静方(挙兵時に逮捕された)は斬罪        懲役 19人  収贖金 2人  除族 123人
          
     宮崎車之助 宮崎哲之助 今村百八郎・・3人はともに兄弟で、     秋月長生寺に並んで眠っています。

  宮崎三兄弟(今村百八郎 宮崎哲之助
        宮崎車之助)の墓  


秋月の乱からわずか4か月足らずで西郷隆盛が挙兵します。秋月の乱は地元で起こりながら、地方民とは無関係な行動であったことにくらべ、西南戦争には身近な人が従軍し、戦争景気もあって一般の生活にも大きく影響しました。こうしたことからか、この地方での民間の記録は秋月の乱よりも西南戦争の方が多く残っています。



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