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    真藤泰栄の実家
   
  青木ち云う家は庄島で藩の礼法(幼儀方)の先生じゃったげな。小笠原流じゃったげな。礼 法の先生てん何てんな、武家の世の中じゃあんまりよか待遇はされちゃおらじゃったけん、禄 も身分も案外低かったたい。

  青木のお父っつあんのおっ母さんの弟(与)さんの、まあだ小まかか何かで、自分で先生役 の勤まらんうちは姉婿さんの祐五郎さんが、家職の後見役のごつなっとんなさったげな。弟さ んの、お役の勤まるごつなったけん、祐五郎さんな別家して、殿様の菩提寺の梅林寺の御用人 ば勤めよんなさったげな。

その頃の羅山大和尚さんの京都に上んなさって御所で天皇に何か御進講するかしなさった時、 お供して御所ん中に入んなさらにゃんとに無位無官で御所に入るわけにゃいかんけんち、臨時 に遠江守に任ぜられなさったてろち云うこつじゃった。

青木のその祐五郎さんの義兄弟になんなさる人が、小まか時から篆刻てん版木てん大人も及ば ん仕事の出けよって、礼法の宗家の京都の公家さんの流儀上の養子分になって、徳川幕府に仕 えて将軍さんの装束の掛りに成っとんなさったげなが、二十五てろで若死しなさったちゅうこ つじゃった。

そげな早熟な人の出なさったけんじゃろたい、お父っちゃまの、絵でん何でん「二十にして名 を成さにゃ何とか」てん気の早やかこつばっかり云よんなさったつは。おまけに画家の青木繁 さんとは、高等小学校から中学もどっだけか友達じゃったもんじゃけん、なお、あげなこつ云 よんなさったじゃろの。

  祐五郎さんの実家は上妻の甘木ん姫野ち云う昔ゃ庄屋のうちじゃったげな。身元調べの時の 話しじゃ、ずーっと昔、西牟田氏の一族の甘木家の土豪、甘木家の家来で姫野左近ち云う人の 子孫げな。

甘木氏が大友に随うて、日向の耳川の戦いで戦死して亡(ほろ)んだ後姫野はあのあたり、甘 木のあたりたい、土着して庄屋になってあったげな。その一族がキリシタンに成って、嶋原陣 じゃキリシタン方で戦うて負けた後改宗して、元の久留米領さん帰って、あの辺りば藩の命令 で開墾して土着し後、庄屋ばついであったげなが、祐五郎さん達の兄さんじゃりが、税金の使い 込みとかで、日田金借って返しはしなさったげなが、何せお代官の息のかかっとる日田金借っ ちゃ芽の出らんち云われとる通りとうとう財産も失うなって庄屋も肥方甚平ち云う人に譲っ て、一人りゃ大坂さん出て、大阪城代の御家人てろになり、一人りゃ土地に残って、大工さん になってあったげなち云うこつじゃった。祐五郎さんの兄弟のこつじゃった。その祐五郎さん の息子さんが牛之助さんたい。

  その牛之助さん、青木のお父っつあんな若か頃、藩命で藩内の若侍が中山大納言邸の守護に やられた時、一緒にやられとんなさったふうで、その頃ん話ばお酒の廻るとようしよんなさった。

  その頃の久留米藩なほーんに剣術の強うして、全国に聞えとったげなたい。お父っつあんも 津田さんに習うて、免許(真陰流)うけとんなさってろで自慢じゃったが、いつか、伏見のお 稲荷さんのにきの山道ば行きょんなさったげなりゃ、向ん方に何人か若侍どんが立っとるげな もん、相手によっちゃ、試し斬りにでんするつもりんごたるふうで…。

ところが、久留米藩のダンブクロに藩のしるしのついとっとん見えたらしゅして.米藩ぜ、米 藩ぜち云うてじーっと道端ん端さん引込うだげなたい。そっでお父っつあんなその前ば通ると き、刀引き抜いて、そったちん鼻先にほーらっち、振り廻して、悠々通ってやったち手振りし てよう話しょんなさった。

  豪傑肌でお酒好きで、そのお酒もチピチピダラリ型じゃなし、グーグー飲んで、もうよかち 云うて、びしゃっと止めよんなさった。明治になった初めは巡査さんになっとんなさったこつ もあったげな。軍人になりたかち、そうに云いなさったげなばってん両親が許しなさらじゃっ たち話しょんなさった。

  津福の今の西鉄電車の駅辺リが、初手は赤松てん茅てん笹の生えた野山がずーっとあったげ な。そこ辺り梅林寺の下寺のあったてろで、その縁でじゃったじゃろ、坊んさんのお墓てん、 祐五郎さん達のお墓のあったたい。そのすぐ近かとこの下さん通っとる大っか道端に住んど んなさった。

  明治二十二年の大水害の後、三潴辺りの、田畑流されて、水害受けた百姓達ば集めて、ハワ イに移民に行きなさる積りじゃたげなりゃ、若手は行けたげなばってん、四十過ぎっとんなさ るお父っつあんな年令の制限で、とうとう行けなさらじゃったげな。

  そりから又いけじゃった者達引き連れて、こんだ飯田高原の千丁無田の開懇ば始めなさった げな。何せ貧乏侍上がりで、資金てん何てんにどげん大ごつしなさったじゃり、一所懸命であ げな開墾の出けたつじゃろたい。米でん何でん寒かけん北の方の米の種蒔いて出けたげなたい。 お父っちゃまも子供んとき、あっちと久留米ばようお使いに、一人で行き来しよんなさったげな。

  千丁無田の一応出けたけん、こんだ払い下げうけとんなさった福万山の方ばまた開くごつし よんなさったりゃ、陸軍の日生台演習場の出来るごつなって、そこの払下げの取リ消しになっ て、納めとった土地代てん手続き費用ば、お下げ渡しなるこつになったところが、其辺の役人達 が儲けごつばたくろうだげなたい。

そっであの気性じやけん、腹立てて、お金はいりまっせん、お上に献上しますち云うて上げて しまいなさったげな。原野てちゃ大分あったてろち云う話じゃった。そっで、ただちぅ訳には いかんけんち、その代りち云うか記念にち云うか、久留米の十二軒屋ん辺か何かに何反かお上 から土地ば頂いとんなさったげなたい。

千丁無田の事業もあらかた出け上ったし、自分も年取って来なさって、子供の中に後引き継ぐ 者もおらんもんじゃけんじゃっつろ、あすこの田てんば息子達にん残しとったっちゃ、持ち こたえて役に立っごつは三人ながら出けんけん、村の学校立つる役に立っごつち云うて、ほん な記念にどりしこか残して、あとはみーんな村に寄附して、こっちさん帰って来てしまいなさっ たげな。誰でんじゃ出来んこつたい。

ほんに我慾のなか立派なお方じゃったたい。思い立ったこつは出来るまでは汗水たらしてしな さるばってん、そりに何時まっでん執着しなさらんもん、皆のためさっさとやって仕舞いなさって…。


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