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    初めての差押え
   
  明治三十五年の夏お祖父っぁんも、もうあんまり長うはあんなさらんじゃろち云よった頃たい。 赤司さんの、「今うちに差押ん来とるばい、ここにも、やんがて来るばい」ち云うて来なさっ て、お父っつぁんと二人で何かこそこそ話しょんなさったりゃ、二人連んのうて、すーうっと 何処さんか出て行って仕舞いなさった。

  差し押えちゃもう吉武へんな、筑豊興業銀行の倒れよった時で経験ずみじゃったばってん、う ちへんな初めてで一向様子ん判らんもん。老衰で何時じゃりわからんお祖父っつぁんな休うど んなさる、お父っぁんなそげなふうで雲がくれして仕舞いなさるで、おっ母さんの一人で、 「ほんに、お主(ぬし)ゃすらーつと出ておいって仕舞うて」ち、ぶつぶつ云いながら、うろ うろしょんなさったりゃ、押えにござったたい。

あっちこっち、ベ夕べタ紙ば貼っつけらっしゃったたい。何ごつでじゃったじゃり、あたしが よか着物ばっかり入れた行李の二っ奥のお部屋ん真ん中に、ちょうど出とったたい。そりが二っ ながら着物入れた上に、新聞紙ばどうしてじゃり何枚づつか上に置いとったたい。その行李ば ちょいとゆすって見らっしゃったりゃ、新聞の音んすごたるもんじゃけん、ちょいと開けての ぞいたりゃ新聞どんが見よるもんじゃけん、そりゃそんをりでお目こぼし合うたたい。

  二階のもんも階下の物も、あっちこっちに紙貼らっしゃったが、大事な物な大方のがれとるもん。 二階の中ぐらいのお客布団の入っとった大ーっか櫃にも貼ってあったが、そりがあーた、底抜 け櫃でくさい、こーう持ち上ぐっと全部スポーッと抜け出っとじゃん。笑うたこっじゃったたい。

  木の茂っとるけん道からでん、家ん中からでん、上ん段に倉んあっとはいっちょん見えんもん じゃけん、大事な物の入っとる上ん段の倉は、押えず仕舞いで、下ん段の穀倉さん行かっしゃっ た。米倉の中にゃ、いつでん二年分とはいわんしこの米の余裕は残してあったもんじゃけん、ほ う、ある、ある、ち云うて地べたにずらっといけ込うどる大がめにべたべた貼って、こんだ、五 尺桶何本にでん入っとるとまで押えらっしゃるげなもん。

おっ母さんの「何時じゃり判らん病人のあるけん、五尺桶ん方まで押えられちゃどんこんならん」 ち云いなさったけん、そんならち、桶一本に、蓋に紙のかからんごつ紙貼らつしゃったばってん、 おっ母さんの、そん位じゃ足らんち云いなさったけん、ほーうそげん入るのち云いござった。 ここはそげなこつじゃ足らんち云うて、とうとう桶の分だけは桶の胴に紙貼らっしゃったけん、 直ぐお祖父っつあんのご葬式で、びっくりするしこ米ん入ったばってん、ねーごつん無かったたい。

とげんでん蓋あけて米ば出さるるもんじゃけん。ほかの押え方もその頃じゃったけんか何かの都 合か知らんばってん、大事な物な、何でんお目こぼし合うとったもんじゃけん、ご葬式の用具に 何にんこと欠かんで済んだたい。そのうちご葬式後にゃ、差押えも解けとったけん、田畑売ってど ん払いなさっつろたい。

その後、吉武んお晴しゃんの来て、うちゃ差し押えん来とっくさい、直ぐお祖父っつぁんばやす (寝)ませて、大事な物な枕許てん、そのお部屋ん押入れん中さん入るるもんち云うち、笑よ んなさった。病人の部屋ん中にゃ立ち入らんげなたい。筑豊興業銀行の倒れたとき、三番目の佐々 の蚕室に、吉武の荷物ばごうほん持って来てあったりしょったもん、吉武の方がその点じゃ先輩 じゃったたい。

  その時分な殿様時代から持っとったとこがたいがい倒れて、新旧入れ替わリよったっじゃろた い。両郡の方にお目見浪人の大地主で道家ち云うとこんあったが、そこがそう云うふうな家じゃ 一番早よ倒れたげなうちへんよりずっと早よに。山本てん、林田てんも、あの頃の銀行倒れてん 何てんで、どりだけか損害は受けなさっつろばってん、土台が大っかもんじゃけん、ビクとんし なさらじゃったたい。それに危なかごたる仕事にゃいっさい手出しなさらじゃったけん。

  うちへんな持っとるてん何てん云うたっちゃ、知れたもんで、一番持っとった明冶二十四年頃 で、土地の四十町ばかりと株権、貸金預金で、三万円なしじゃん。直う、がたがたになって仕舞 うたったい。織屋の収入は、まあまあー応上りょったげなけん、うち一軒分の生活の費用はまか なよっつろけん、そっでどうにか、保(も)てて行っつろたい。ばってん,こりゃ思い切って、 儲かりょる内、やめなさった(日露戦争頃)けん、よかったげな負債にゃならじゃったげな。


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