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    銀行会社の倒産
   
  うちの親類縁者一族だけで出資して、常盤組ち云うて、銀行んごたっとば始めて、本店な久 留米に在ったげな。行徳の岡野のお座敷ち云うて、こう突き出とったお郎屋んあったとこば事 務所にして、強五郎さん達の出入の者どん使うて事務とりょんなさった。上郡支店ちばし云う ごたっとじゃっつろたい。その頃は都合よう行きょったげなが、後にゃ(明治二十六年)常盤 銀行ち名の変っとった。

そして田村の峰しゃんが何か重役しとんなさったげな。ところが久留米に六十一銀行ち云うと の出けた(明治三十年七月)けん、久留米の親類や六十一銀行さん乗り換えとんなさったたい。 佐々の治さんな久留米貯蓄銀行てろば作って(明冶二十九年七月)六十一銀行の何かもしとん なさって、その頭取にもなっとんなさったげな。

そりばってん侍の商法んごたるこつで、信用貸ししとんなさったつてろの焦付いて、一騒動の 起るやらじゃったたい。どういうもんじゃり日清戦争のち、うちの関係しとった銀行会社は、 どこでんのごつ調子の悪うなったたい。

  六十一銀行もがたぴし成ってしもて後にゃ支払い出けんち云うごつなったりして、とうとう 大正元年失うなって仕舞うた。常盤組ち云うなりで浮羽郡で仕事しょっ方がよかったち、お父っ つぁん方(がた)の話しょんなさったこつのあった。吉武吉之進さんの頭取しとんなさった筑豊 興業銀行ち云うとも倒れた(明冶三十六年十月)。

たしか熊本にあったつしゃろ九州商業銀行ち云うとも倒れた(明冶三十年代)。始め久留米 紡績ち云うて、のち鐘紡に合併した(明治三十年代)つも株の合併して縮小して仕舞うし、う ちが株主じゃったり、預金しとったりしたとこは、片端からそげなふうで倒れたり調子の悪う なってしもうたたい。

  初手は今のごつ郵便局てん銀行てんち無かけん、村ん者達ゃ、講ば作ったりして、お金ため たり、借ったりしよったげなが、地主てん何てん信用の出来るとこへんに、何分の利子ばつけ てもらうごつして預けよったげな。預った方は、預け人に払う利子以上の利子で貸し付けたり、 色々に廻して、預かった方も利益ばあげよったげなたい。個人銀行ち云うごたるもんたい。

  明治になって、郵便局、会杜.銀行のぼつぽつ出けちゃ来たが、初手の習慣のまぁだ残っとっ たふうで、うちへんにもそげな村の者からの預り金のどりだけかあって、関係しとった会杜の 株てん銀行預金、小口貸し付てんにしてあったげな。そげんとは大した額じゃなかった模様ばっ てん、そりがそげなふうでどこでん調子の悪うなって、失うなって行くもん。

うちんとだけなら「失うなったあー」でんよかばってん、人からの預り金な決めた利子つけて 返えさにゃならず、田畑低当にしたりして、お金借って払うたもんじゃけん預り金な負債に成っ てしもたし、小口貸付はなかなか返ってこんし、左り前になっと、余計返ってこんごつなるも んのー。

そっぢゃけんちぅて、強引に高利貸のごつ取り立つるちぅこつはしきらんし、あとあと迄、なー にんならん証文どんが大分残っとったたい。お人良しち云うかおかしかこったい。


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