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    石原、山本一族
   
  石原ちゃもと、丹波から殿様に着いておいったげな。弟御が、大阪の陣で股ば鉄砲だまで 撃たれて、足の思うごつならず、ご殿勤めの仕官の出けんけん、お願いして浪人籍のまゝ洗 切(あらいきり。京町)のとこで材木屋ば初めなさったげな。造り酒屋も始めなさったげな。 藩のお城普請てん侍屋敷の出けたりの材木の御用てんなんてんで、ほーんに繁昌して、どん どん大きうなんなさったげな。島原の陣の時の藩の御入用の材木も大かたは石原が御用仰付 かんなさったげなたい。そして、材木屋じゃけん、屋号ば木屋ちつけなさったげな。

  ところが、洗切に藩のお船方の船着場てんお船方の屋敷の出くるごつなったけん、瀬の下 に屋敷ば代えて頂きなさったっげな。

  洗切ちゃ、のち石橋さんもあすこにタビ工場移しなさって、どんどん繁昌しなさったけん、 よか土地じゃろち、親類寄ったとき話しのありょったこつのあった。  そりから兄さんの又兵衛さんの島原の陣で討死しなさったげな。小まかお子さんの一人お んなさったけん、そりば弟ご材木屋の与右衛門さんの養子にして、自分が石原二代目になん なさったげな。又兵衛さんの討死したり後に藩の財政に功労のあったりで、六代目小兵衛さ んの時とかに賞典米二百俵づゝ毎年下さるごつなって御一新迄ずーっと頂きょんなさったげ な。

  その小まかったお子さんが大きうなって三代目九太夫さんになり、次の四代目小右衛門さ んに男のお子のなかったけん、上津荒木の本村の山本から善次郎(五代目小右衛門)さんば 養婿にしなさったげな。 上津荒木の山本ちゃ、昔の草野の最後の城主草野家清 (鎭水) の弟山本太郎孝平の子孫で、太閤さんが草野ば亡ぼし(天正十五年)なさったけん、高良山 の座主ば頼って、乳母が菊千代てろ云いなさる和子(わこ)さんば抱いて、高良山に落ちて 行っとったげな。和子(わこ)さんな高良山で大きうなって、甚兵衛胤平ち改めて、上津荒 木村の上津荒木紹武ち云う人の娘婿になんなさったげな。(上津荒木氏は高良山座主の上津荒 木方面の領地管理人)

  山本ちゃ、草野城が山本郡にあるけん、山本ち云う姓はまあだ草野城におんなさった頃頂 いとんなさったっげな。

  五代目小右衛門さんな、自分の実家の山本は初めはとてもよかったげなが、草野の血ひく 門閥ばってんだんだん衰えて来たけん、自分の二男の喜佐衛門さんに別に山本の姓ば名乗ら せなさったげな。石原は長男の小兵衛さんが継ぎなさって、この六代目小兵衛さんななかな か理財に長けたお方で、藩の財政にそうに功労のあんなさったげなが、文才のあんなさっ て、。″石原家記″てん外にも種々著書のあって、和歌てん俳句てんほんにようしよんなさっ たお方たい。

  小兵衛さんに小右衛門さんと松左衛門さんおエンさんちお子さんのあったけん、小右衛門 さんが本家七代目になって、松左衛門さんな分家しなさって浜ん石原ち云よったげな。ここ が石原繁雄さん方たい。松左衛門ざんのお子さんな、兄さんな与左衛門さんで弟さんな櫛原 の粟生にご養子になんなさった半兵衛さんたい。与左衛門さんの娘ごは、この粟生の娘分に なって、水天宮の宮司真木和泉守の、奥さんになんなさったたい。

  おエンさんな、山本喜左衛門さんの長男で垂井ば継ぎなさった勝兵衛さんの奥さんになん なさった。うちの良右衛門さんのおっ母さんたい。

  小右衛門さんの次、八代又兵衛さんち続いてこの頃からもう石原は財産の大分失うなった ったい。又兵衛さんの子九代小右衛門さんに真藤良右衛門さんの娘ごがおいったばってん、 なんじゃかんじゃで、女の子一人残してうちさんまた帰っておいってうちでおかくれたたい。 其女のお子さんに、山本の後の伝之進さんのご兄弟のお子さん正三郎さんば婿養子にしなさ ったたい。そして、正三郎さんとおくにさんとの間に何人でんお子さんのあったもん。

今の国分の西原のにきにおんなさって、色々そうに山本からして上げなさるし、うちもまあ だ、どうろこうろしとった頃は、子供さんの久代さん達ば引取ったりして、お世話したりし よったが、一向に芽の出ず、長男の要之肋さんの奥さん呼びなさる時でん、山本のばばさん 達も昔式じゃけん、身分違いてろち云うてお気に入らず、お祝物持たせてやるお使人に「お めでとうちどん云わさんな」ち云うてやりょんなさった。恋愛結婚ち云うとでなおお気に入 らじゃったったい。今とは時代の違うもんじゃけんの。

  そのお子さんたちも何人でんあんなさるごたったが、今じゃそのあとが東京の警視庁に勤 めたりして、まただんだん芽の出て来なさったたい。長か家系にや浮き沈みはつきもんじゃ けんの。

  山本喜左衛門さんの三男が善次郎さんも云いなさるお方で、お父っつぁんの力も兄さんの 力も借らんで、独力で酒造業は初めなさったげな。質屋もしなさったげな。そしてどんどん 財産の出けたげな。そげん繁昌しょんなさるもんじゃけん、藩の出した藩札の証人にさせら れなさったげな。その後、藩のお金繰りの悪うなってその藩札の通らんごつなるち云うとこ で、みんな証人の山本さん押しかけて来て、ただになるお札で、質もうけ出しお酒でんなん でん買うて行って、「もうちーっとしか酒桶にお酒ん残っちゃおりまっせんばい」ち番頭の云 うて来たげなたい。そんとき誰かが狂歌ば作ったげな。

  藩札のすたると人はゆうだちの
      さわぐも無理な元がかみなり   ち。

  折角いままで働いて作り上げなさった財産の一ペんに失うなってしもたもんじゃけん、苦 うっとして休み込うどんなさったげなりゃ、「そげんしとんなさったっちゃ仕方んなかけん、 気晴しに高良山にどん参んなさい」ち友達の誘いなさったげなけん、一緒に高良山にどん参 って、帰りがけに、ずうっと上津荒木の方さん廻って、桜尾てろちうとこ辺の田は見よんな さったげなりゃ、どうもこりゃ今年ゃ不作になるばいち思いなさったけん、家に帰ってお金 よういして、つうーっと馬関(下関)さんおいって、米ば買い込みなさったげな。

そりからやっぱ不作で、米のほーんに高うなったげな、そしてまた大豆てん砂糖てん買うて、 こりも大当りで、漸う失うなっとった財産は待ち直しなさったげな。そんとき、善次郎さん の奥さんなご自分の櫛、こうがいからご衣装みんな箪笥ぐるみ、売り払うてその資金作りし なさったげな。

この奥さんなたしか今田からおいっとったち思うばってんはっきり覚えんたい。そしていっ ときゃ婢(おなご)もおかず一生懸命働きなさったげな。そしてまただんだん財産も前以上 に増えて行ったげな。

  そりばってん善次郎さんな「自分なあげなこつになったけん、止むを得んで相場てんなん てんに手出ししたばってん、後々の者な決してこげな危なかこつばしちゃ出来ん」ち、しっ かり云い渡しとんなさったけん、山本は代々手堅うして来なさったつげなたい。その後も始 終、藩から御用金ば上ぐるごつてんなんてん命令のあったりで、そうなしこ(量)の献金が あっとったげな。

幕末頃後の伝之進さんの武備ば固めにやいかんけん、鉄砲五百挺献納しうちしなさったりゃ、 もう今その代金ば上げろち云うこっになって、お金の代りに田五拾丁は上げなさったこつも あるげな。殿様時代の終りにゃ、とうとう一万両一ぺんに出しなさらにゃんごつなったたい。 そのころは、百両余りも出しゃ、良田の一丁位ゃ買えたらしかけん、一万両ちゃ大したもん たい。 

  毎年ご先祖のお祭のあって、その時の旦那ん様の家訓ば読みなさっとば、一家、一族みん な畏まって聞きょったたい。

  もとから石原一族で士分じゃったばってん、度々の献金てん何てん藩の財政に、そうにお 役に立っとんなさるけん、お召し出しのあって、始め竹の間並みじゃったげなが、後にはだ んだん禄も多うなって、大小姓で三百三十石頂いとんなさったげな。

  善次郎さんの兄さんが垂井ば継ぎなさった勝兵衛さんと、太田ば継ぎなさった九右衛門さ ん、弟の喜四郎さんが岡野三左衛門さんの孫婿さんになって岡野ば継ぎなさった。善五郎さ んち一番下の弟さんな若死にしなさったげな。 

  善次郎さんのお子さんの朔之進さんなのち伝之進さんちなんなさった。このお方の奥さん な、垂井勝兵衛さんの娘ごで、垂井八百太さん、真藤良右衛門さん、岡野半右衛門さんの奥 さんになんなさったおやささん、上古賀の倉重においった又右衛門さん、とご兄妹たい。伝 之進さんの妹ごが良右衛門さんの奥さんになんなさる、八百太さんの奥さんに太田ば継ぎな さった九右衛門さんの娘ごがなんなさるで、一族間に血族結婚の多かこつが。

  あたしの娘んころ、山本のおのぶばばさんの、「ああたは、よそに行きなさるとじやなかけ んで、なんでんようとお話しとくばいの」ち仰しゃって、家系のこつから一族の色々のこつ ば詳しうお話して頂いとったばってん、なんせ記憶力んにぶかっと、もうずーっと初手んこ つで、なんでんほんに忘れてしもたたい。

  初手は、家系てん、それにつれた、いろいろな話しば、しっかり憶え込うで後々の者に、 ご先祖てん、一族のこつば教え込むとは、そこの主婦の大事な務めの一つらしかったたい。

  山本はお祖父っつあんの両親のお里じやったばってん、あたしが代にゃ大分血縁な遠うは なったばってん、縁組はみんな、石原、山本の血引いた一族とばっかりで、青木との縁組で 初めて、外からの縁の出けたったい。

  石原の本家は衰えとんなさったし、一族のもんな、山本は血統上の本家ち云う気持でみん な行きょったし、山本はまた一族の柱ち云うた立場で、悪うなったとこへんのお世話ばよう してあげよんなさったたい。うちものちにゃ、恒がお世話頂くし、何彼ち云うちや山本に行 きよったたい。

あたしも子供ん時から、おみきしゃんてん、おまきしゃんてん、同じ年頃んお方たちんおん なさるけんもあっつろが、いつでん行ってお世話になりょったたい。後になってもお安さん (作之進妻)小母さん方も、「ミチしゃんなお里ちゃ持ちなさらんけん、うちにおいっとが お里帰りんつもりじゃけん」ちほんにようして頂きよったたい。

  昔ゃ世の中の制度のせいじゃっつろが、どこでん、一族間に血族結婚の多して、同族、親 族ち云うて、百年も二百年も、長うなにかにつけて、親しうして行くとこへんが多かりょっ たもんの。殿様時代がねーごつんなし長う続いたけんじゃろの。

  朔之進さんのお子さんな初め武八郎ち云よんなさって後に後の伝之進さんになんなざった ったい。後の伝之進さんの奥さん探しゃ、ほーんに大ごつで、あっちこっち探しょんなさっ たげなが、一向よかごたるお方んなかげなもん。そりからなーんのほんな近かかとこにおん なさったち云うこつじゃった。お医者さんの平木ち云うおうちのお嬢さんじゃったげな。そ のお方が美しかもなんも、ほんに美しうして、いつか殿様、月船公じゃっつろ、ご覧になっ て手がもう少し小さいなら、これが本当の美人ち仰しゃったげなたい。

  月船公ちゃ時にや面白かこつばなさりょったふうで、いつか市の上の御殿に家中の奥さん てんお嬢さんてんば、お花見ち云うこつで皆んなお召しになって、御酒てんおごちそてんば 下さったげな、みんながよろこうでそりば頂きよっとこば、どこかのおふすまばすこーしあ けて、のぞき見なさりょったげなたい。そりからほんに美しか大きな手の奥さんじゃけんす ぐお目にとまったらしうして、あの手の大きな女はどこの者か、ち仰しゃったげなけん、お 附きのお方の「あれは山本武八郎の家内でございます」ち申し上げなさったげなたい。おか ねしゃんのいつかそげんお話ししよんなさったけん、大方そん時どん仰っしゃったこつどん じゃっつろの。

  そのお方がそうに手の利いた、捌けたお方じゃったげな。二度縫いするとこでん、布取り 直さんで、右の手でさっさと縫いなさって、こんだ、左手でまたさっさと縫い返して行きな さるち云うふうじゃったげな。右も左も利いとんなさったげな、そげなふうで手の大きうあ んなさっつろたい。

  そのお子さん方じゃけん、元々顔立ちの良うあんなさっとになお美しかったっじやろ、後 の善次郎さん、常寛 (常五郎)さん、お婦貴さん、田村においっとったお方達、みーんな ほんに美しうして。いつか善次郎さんと、うちのお祖父っつぁんと、どこかに人力車に乗っ ておいりよったげなもん。そしたりゃ、子供達が走って車ば追い抜いて、善次郎さんの車の 前で振り向いて、こーう見上げよったげなりゃ、いっときして「違う違う、西洋人た違う」 ち云うて、引返して行ったげな。鼻の高うして目のちょっとくぼうだ感じで西洋人のごたる 顔立ちしとんなさったそうな。

幕末、藩の砲術のけいこ場の明星山の横ん方にあったげなが、そこに砲術の稽古においった 帰りに、よう常寛さんの前髪姿でおいりよったつの、ほんに美しうして水の垂るるごたった ち、長よむ達のよう云よったない。美しかち云う人もほんに世の中にゃ多かばってん、山本 一族の美しさは上品な美しさで、けばけばとしたり、見よって飽くちゅうふうな美しさとは ちがうもんの。

  垂井は明治中頃以後はどうなっとんなさるか、お互にお便りもなかったが、明平さんの陸 軍少将になっとんなさって、そのお子さんにお城内のあきしゃんのおいったげなもん、いま は東京におんなさるげな。

  太田は石原五代小右衛門さんの三男の九兵衛さんが通九丁目の太田ば継ぎなさったげな。
  石原小兵衛さん山本喜佐衛門さんの弟ごたい。なかなかの豪家じゃったげな。お子さんのな かけん、喜佐衛門さんの二男の九右衛門さんばご養子にしなさったち、そりがうちの良右衛 門さんの叔父(おっ)つぁんたい。娘ご二人で、妹ごの方が垂井八百太さんの奥さん、姉ご の方に喜佐衛門さん達の末の弟ごの善右衛門さんの長男平右衛門さんばご養婿にしなさった げな。平右衛門さんの弟ごの三左衛門さんな上古賀の倉富のご養婿になんなさったげな。う ちのおふちばばさんのお祖父っつぁんになんなさるお方たい。

  九右衛門さん、平右衛門さんな、羨乎、文角、ち俳号持っとんなさって、俳句てんなんて んが上手で、其頃の久留米の文化人で有名じゃったげなたい。平右衛門さんの次が藤左衛門 さん、次が平之進さん、次が耕次郎さん、次が勤さん、このお方は若死にしなさったが、鏡 花崇拝者で、あたしだん娘ん頃山本で大学生の勤さんから鏡花崇拝論はよう聞かされよった たい。平之進さんの娘ごじゃっつろ山本の後の善次郎さんの奥さんになんなさったお方は、 作之進さんのおっ母さんで、まあだ若うしておかくれたげなけん、のちよりに、吉武からお のぶさんのおいったっげな。

  山本のおのぶばばさんな、よう行きとどいたお方じゃった。みんなが、げばさんについて 行くち云よったが、ほんにそうじゃっつろ、あすこに行ったっちゃ、ばばさんのお留守んと きゃ、はーんに寂しかりょった。

  三八とか云よった芸者が通外町の絣屋に受け出されとったが、受け出さるる時、受け出さ るりゃ、絣はえてん、何てんせにゃんち悔ようだげなけん、その家に行ったからにや、なん でんせじゃこて、そうして受け出さるゝなら、相手が甲斐性のある人なら行け、ちおっしゃ ったけん、行ったっげな。そっで何か事の有っと、すぐご相談に来よったげなが、「あたしゃ 旦那ん様につけて来よっとじゃなかばい、お袋さまにつけて来よっとばい」ち云よったげな。

初め三八があすこに出入りするごつなったつは、善次郎さんの長ういたみつきなさった時、 気晴しに誰か上手に三味線弾く者なおらんじゃろかち、さがしなさった時三八がほんに上手 じゃけんち云うこつでよびなさってからのこつじゃったげな。三八が来っと、作之進さんの 嫌いなさるげなもん、自分のこつば、三八がつげ口するかも知れんけん。そっで「お前々来 んな」ち叱んなさるげなばってん、ケロッとしてお出人しょったげな。そげなふうで、みん ななにかち云や、直ぐ頼ってご相談に行きよったげな。

  山本に行くとお火の見で遊ぶとが面白かった。お茶の間の二階からちょっと出ると、物干 の板張りのあって手摺のついとった。そこからまた梯子で本家の上にまた板張りのあるとこ に登るたい。そこがお火の見で、街中の見晴らされた。夏の夜さりてんな、そこで涼みよっ た。

此お火の見の出けたつは、本屋の出けたっが天保頃げなけん、その後のこつじゃっつろが、 真藤はその頃は、良衛門さんなおかくれて、後家さんになんなさったおハエさんと、十四、 五の重三郎さんの代に変って、山本が後見してやりょんなさった時じゃっつろけん、火事ど んがある時ゃ、真藤の方がよう見ゆるごっち云うこつもあって造んなさったつち云うお話し じゃった。

いつか、提灯はいくつづつか長か竹竿に附けて、二本、一本な、屋根の上、一本な屋敷うち の高か木の上に立てて、打ち振らせて、そりゃ真藤の方にたい。山本からお火の見に上って 見なさったげなりゃ、一本の方は打ち振るあかりの見えたげなばってん、も一本の方は物陰 になったか、提灯の数の少なかったけんか見えじゃったげな。

かねて打合わせときゃ火急の知らせの合づの出来るごつち云うこつでじゃったらしか。実用 にしなさったかどうか、その辺な聞きもらしたたい。

  花ザクロの大っか八重咲きのつが、お茶の間のお露地にあった。ほんに美しかったが、あ りか岡野が京ノ隈の小松原から上郡さん引込みなさったとき、上げなさったち云うこつじゃ った。

  山本の本家の方は殿様(頼徳太良公)が建てろち命令して建てさせなさったげな。殿様が そして時々おいりよったげな。藩の貴賓のお宿にもなりょったげなけん、家が普通の家とは、 ちょいと違うとったもんの。お玄関な上段の間のついとって、お刀掛けてん槍てん置くとこ じゃったげな。お座敷から次の間までお縁の方に人側ち畳廊下のあって、その外側にまた板 張りのお縁のあったたい。ご一新ごろは、藩の秘密の相談ごつだん、人目に着かんごつちう て、ようそこでありょったげな。そん時のお給仕役は、まあだ常五郎ち云よんなさった頃の 常寛さんじゃったけん、その頃の色々な藩の内証ごつは、常寛さんな岡野の健さん達より年 ゃ少なかばってん、余計知っとるちお話しよんなさった。

  あの家の建っ時、屋敷の具合で、そげん広ろは建てられまっせんち、山本から申上げなさ ったげなりゃ、そんなら隣は崩せち殿様の仰っしゃって、隣の家は取り除けさせなさったげ なたい。

  お玄関な破風造りじゃった。昔ゃ御家老さんてん、相当な身分の屋敷でん破風造りのお玄 関な作らじゃったげな。家の軒廻りと同じふうで、敷台のあって舞良戸てん障子てんどんが 建っとるだけじゃったげな。明治になってどこでんお玄関に破風ばつくるごつなったげなば ってん。山本は殿様の造らせなさったけん、そげな破風造りの出けたつじゃろ。ご門とお玄 関の間の右手に馬屋のあったたい。ご門な昭和の初頃道の拡がる時に解いて、材木てん瓦て んな、西原さん持って来てあったが家の方は戦災で焼けてしもうたたい。

  馬屋ちゃ、其ご門内の馬屋解きなさった時、馬のおしっこ溜めの辺りてろに、かなりの大 きさの長手の瓶ば斜めに理めてあって、中に大っかあわび貝の一っ入っとったげな。中にゃ もう何も入っちゃおらじゃったげなが、初手は思いがけも無か処に、不時に備えてお金の小 判てん小粒てんば納しこみよったげな。あわびは、中のお金はすくい出す為に入れてあった もんじゃろち云うこつじゃった。まさか馬のおしつこ溜のそばにそげなもんの埋めてあろち ゃ誰りん思いもかけんこつじゃっつろたい。


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