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    佐々家の人達
   
  佐々金平さんな、久留米藩の若手勤王派じゃったたい。佐幕派の不破美作さんば同志と一 緒に斬んなさって、久留米藩が勤王方になったっげなたい。不破さんば斬って自首して出て、 ご沙汰ば待っとんなさったげなりゃ、かえってお褒めに預って、お召出しのあって五稜郭の 戦いのときゃ、久留米藩参謀で戦よんなさったげなが、背に旗指物立てとんなさっとば目が けて.どんどん敵の弾丸の飛うで来るけん、そばにおんなさったお方に「この指物ば取って くれなさい」ちこうかがみなさったとき、首筋から背骨にそうて敵の弾丸の通って討死しな さったげな。

  ちょうど次郎助さんな十五才てろで、藩の鼓笛隊に入って江戸においっとったげな。そこ に金平さんの跡目の御沙汰があったげな。

  次郎肋さんなそん時、明治天皇のお江戸、東京さんおいでになった鳳輦は、品川あたりと かでお迎えしなさったげな。鳳輦のすき間から黄色かごたる御衣の見えたちお話しょんなさっ た。酉南の役にゃ、官軍で従軍しなさったげなが、兵隊に“ほうそう”のほーんにはやって、 次郎助さんもどこかお寺で寝(やす)うどんなさったげな。ようなりがけにゃ痒うしてなら んげなたい。ばってんそりば掻いたりすると、あとが大事になるちうてじっとこらえとんな さったげなりゃ、そのうちがパーッとお面ばしはづすごつ、ほうそう”のかさぶたの顔ん形 してはげて来たげなたい。いくぶんか痕はあったばってん、見苦しかごたるふうじゃなかっ た。

  のち櫛原の三番目(三丁目)の旧藩の重臣の円岡一学さんの屋敷跡におんなさった。名はのち 真成(まさなり)ち改めて佐々真成ちなっとんなさった。

  久留米に紡績会杜の出来るとき.色々しよんなさったらしうして、上海まで見学においっ たこつもあったげな。地盤の堅かとこでなかと.機械据えつけにゃならんけんち云うて、元 のお城の二の丸に紡績会杜ん建ったったい、二の丸にもって来て、工場建てたとこはほんに よそにはなかかも知れんの。今じゃその跡にBSタイヤの工場の出けとるたい。

  佐々の屋敷や裏の方が広ろか畑になっとったけん、そこに桑植えたりして養蚕して、蚕室 は門の内の東側に建てとんなさった。二階の上に天井の低くか三階のあってそこに上ると放 水路の方の見よった。そのご、久音米に女子の職業学枚の出来るごつなつて、いっときその蚕 室が学校になっとったこつのあって、その学校(星野房子校主、渡辺勘次郎主幹)が、のち の家政女学校の前身じゃった。

真成伯父(おっ)つあんな.あげん口ひげ、あごひげのおでこで、えーすかごつしとんなさっ たけん、こちこちの昔頭かち思ううばってん、なかなか開けとんなさったごたる。お父っつぁ んたちと自転車仲間じゃった。もとはお城の外堀がずーつと篠山から櫛原の西の方さん来とっ とにようお魚んおって、おっつぁんの網打ちにおいっと、いつでん、だいぶん広う水漕んあっ たっに真っ黒になるごつ取れて来よった。

  初手ん侍の家はご門構えはしゃんとしとってん、お玄関な簡単なふうに.軒廻りの下んと こに敷台どんがあって、相当な身分の家でん簡単じゃったが、家の中は見かけによらず広か ったもんの。佐々の屋敷ゃ千石取りの円岡さんの屋敷跡じゃったけんでもあろが、陽のいっ ちょん当らん部屋もあって、そげなふうに広かったけん、中学生さんが次々何人でん下宿し てありょったたい。

その頃は中学生さん達ゃ、あっちこっちの家に下宿して学校に通よったけんの、成(しげ) しゃん(真成四男)もまあだ中学生で、恒ば連れて行くと皆でよう遊うでやりょんなさった。 恒も子供ん時から、年の多か人と遊ぶとば好いとったもんじゃけん、いつでん行くと、門か ら入って行きよっとのお茶の間の二階からようわかるけん。

二階の窓から学生さん逢が「来よる、来よる」ち云うて見ござった。恒が二階さん上って行っ て、ようたてがわれよった。その頃歯かげじゃったけん.成しゃんから「真藤恒、通称禎夫、 歯欠と号す」ち云はれて「イヤン、イヤン」ちどん云よったが、どーか、いつの間にかあげ なぢいさんになってしもてー。あたしが年寄った筈の…。

  北側のお露地に大っか穴のほげた松の木のあったもん、ありゃ雷さんの落てたつげな。ビ シャーッと来て、目の前ん真っ黒うなってしもうて、ほーんにえずかったち、ばあやんの話 じゃった。その松の木は枯れもせんで、屋敷や石橋さんの屋敷になっとったが.いまは教育 クラブてろ云うとになっとるげなのー。

  三番目の本家、五番目(櫛原五丁目)の佐々は、ず一つと昔や佐々成政がご先祖げな。太 閤さんから肥後熊本の城主になされたつに、なにかの口実で呼げ付けられ熊本から上りよる 途中で、切腹させられて残念ち云うて死んなさったけん、残念さんち云うて、その跡ば祭っ てあるげな。近畿のどこかげなたい。その佐々の、お子さんの兄御が細川さんに仕え、弟ご 達が四国の蜂須賀さんと、久留米の有馬さんに仕えなさって、久留米は、お城内に屋敷いた だきなさったげな。そのお城内から櫛原ん五番目に、弟ごの分家しなさったげなたい。

  治さんの奥さんな栗生(京ノ隈)からで、背はちいそあんなさったげなばってん、ほんに 美しかったげなけん、櫛原のすわり牡丹ち、その頃の人達の云よったげな。お子さんの八人 おんなさった。三番目の初野おばさん、権藤の本家と新宅においったお邦さんと綱しゃん、 武夫さん、猪田のこましゃん、篤次郎さん、孝しやん。

  治さんな、久留米貯蓄銀行てん、六十一銀行の頭取てんしとんなさったげなが、そのころ の、そげなとこの重役達ゃたいがい、侍上りで、大まんげなこつじゃったらしうして、賃全 の焦げついたりで、責任上困った立場になんなさったふうで.あたしが御井高等の時じゃっ たか、学枚で修身の時間に先生の「親族一類はみんな助け合わにゃをらん」ちう話ばして、 あの銀行がこう云うふうになったとき、小森野の権藤さんや、国分の真藤さんや、親類の方 達がみんな助け合うて、佐々さんが窮地ばのがれなさった。

親類ち云うもんな、こげんみんななからにずならんち.話しなさったたい。あたしゃ子供で もあったし、うちでそげな話ばなにも聞いたこつは無かったけん、いっちよん知らじゃった たい。先生の話しなさったけん知ったごたるごつで…。そっじゃけんち云う詳しう、うちに また聞くち、云うこつもせじゃった。

  佐々治さんの長男の武しゃん(武夫)な.三菱に勤めとんなさったが四十過ぎにゃ久留 米さんお帰(け)えっとった。うちが銅山初めた頃は資本ばどっだけか出して頂いとったば ってん、あげなふうでしくじったけん.とうとうご迷惑かけてしもたが.いっべんでん催促 がましかこつてんおっしやったこつはなかった。

おっ母さんの、福岡の大学病院に入院しなさらにゃんとに、なにやかやでその頃のお金で八 百円要るけん、どうしゅうか、土地はどりもこりも抵当に入ってしもとるしら云よったりゃ、 こつちからご相談もせじゃったつに八百円持っておいって、こりば使いなさいち云うて頂い たたい。返すすこつはいらんばいち云うこつじゃったけん、ほんに有難かったたい。

そのころの八百円ちゃ大金じやったばい、大正八年のこつじゃけんの。そんとき、子供んと き学校で聞いた話思出して、あぁゆうこつのあったけんじゃっつろかち思うたこつじゃった。

  武しやんちゃ矢張、昔の気風のあんなさって、なかなか色色のこつについて筋違いなこつ どんがあっと、ほんに好きなさらしゃったが、そりゃご自分が昔風の筋正ださにゃ出けんご 気性じゃったけんじゃっつろたい。

  うちのお父っちゃま(真藤泰栄)とはほんに性格もなにも大ちがいの正反村んごたったばっ てん、ウマの合うち云うとじゃろたい.しまえまで、武しゃん、泰さんでほんに親しかった もんの。

年は十二向うが多うあんなさったたい。いつでんお父っちゃまのとばしゅる(飛沫)ば受けな さっとは武しゃんじゃったもん。いつかうちに差押ん来て競売のとき武しゃんのそりば買い 取って、うちさんやっときなさったもん、そっで、うちの家財や終(しまえ)にゃ武しゃん のっばっかりになってしもうて、差押ん来たっちゃ武しゃんからの申立てで解かれよったたい。

時計てんなんてん、昔からんとの残っとっとは、そっじゃけんじゃったたい。そっじゃけん ち云うて、貸科取んなさる訳じゃなし、そっどころか、うちは、そりば自分のつと同じにし て売り払うて売り食いしよったたい。そげなこつは百も承知ちうごたる顔、武しゃんなしと んなさった。

うちにおいると甘かもん好いとんなさったけん、なにかなしのときでん.何とか工面して、 ぜんざいてんお汁粉てんば作ってあぐっと、ほんによろこうであがりょった。八十七か八で おかくれたばってん、その二、三年前迄高良山から歩いて来たてんち、ようおいりょったが、 足のなかなか強いうあんなさったもん。

お子さんな何人でん出けよんなさったばってん一向そだちなさらじゃやったけんか猫好きで 親子猫のよーおりょった。謡のほんにお上手じゃったけん、よう誘うて頂きよった。教へて も頂いたたい。背はおっかさん似でおちさかったばってん、若禿げで禿げ上った品のよーか お爺っつあんじゃったもんの。

  猫は三番目の佐々にも年寄ったっのおって、十四才かじゃった。子は生むばってん、乳の 出らんげなもん。そっでばーやんが葛で作ったお菓子ばとかして子猫に飲ませてそだてよっ た。十四オで老衰で死んだが、死ぬ年まで子ば生んだばい。

  三番目の佐々に清水又平とその嫁さんのおあきち云う夫婦のぢいやんとばーやんがおった もん。使用人じゃぁあったっちゃ、家族同様で何でん佐々んこつは自分のこつんごつ一所懸 命しょった。子供の躾てん何てんも、親んごつ親身になってするし、おばさんの何かぼやっ としたこつどんしよんなさっと、ばあやんから「奥様、どうしょんなさますの」ち叱られよ んなさった。子供はなしに、ばあやんの姪がおったがどうなったじゃり、あげんとが.ほん な昔なら、忠僕、忠婢ち云うとじゃろの、お墓も佐々のたのみ寺の千栄寺に作ってあった。


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