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    村芝居
   
  初手は、今んごつ映画館のあるじゃなし、ラジオてん、テレビてん、あげなもんな何んな かもんじゃけん、村芝居どんがありよったたい。なにかのお祝の記念てんなんてんでするこ つもありゃ、自分達ん、かねて素人の楽しみで、けいこしたつの打ち揚げちうてもしよった し、勧進元ちうとどんが、何人かもようて、旅芝居役者てんなんてんば呼うで来て、金もう け目あてに興行するこつもありよったたい。

ところが、金もうけどころか、大損して勧進元が夜逃げしたてん、田ば売ったてんち云うこ つの時々ありよったふうたい。芝居の人気んよかと、"追ねげ(願い)"ち云うて興行日ば長こ のばしょった。そげん時や勧進元は大もうけじゃったげなが、入りの悪かったり、雨の降り 続いたりすっと、もうけどころか散々じゃったげなたい。

  遊びごつにするとば、遊楽芝居ち云よったが、のちにゃ村芝居はみんな楽しみごつちうこ つで遊楽芝居ち云うこつになっとったたい。

  村芝居どんがあると、親類縁者ば、呼びよったたい。みんなお重箱に、何段でんお弁当拵 えどんして、男達や徳利どん提げて行きょった。むしろ一枚、一枚ば棧敷(さしき)ちうて、 幾ら幾らで場所銭取りょったたい。芝居ん幕の開いとろとおかまいなし、お弁当開きょった。 男だんお酒どん呑うで、何とかッち、かけ声どんかけよった。花ち云うて、お包ば、ちょっ としたとこへんな座元てん、役者にてん包むと、ひとつひとつ「花の御礼申し上げまあーす 何々様より何々丈え…」てん読み上げて、紙に書いて、花道んとこにどん張り出したりしよ った。

  あたしがまあだ小まかった頃、八枝のそこの薬師さんのお堂の出けたたい。その、"わたま し"に堂出んにきで芝居のあったたい。其時の芝居の外題や大蔵卿じゃつた。馬鹿の真似して ござる殿様が、子供んごつおもちゃの馬に乗ってハイシドードーち云うて、そこへんば、遊 び廻らっしゃるたい。奥方ば刀持ちにして。あたしゃそんとき芝居小屋で熱ん出た。安元の 養元さんち云うお医者さんも、芝居見に来とんなさったけん、かかりつけのお医者さんでち ょうどよかったけん、芝居小屋で診て頂いたたい。ホーンに高熱の出て、何日でん休んだた い。

  女学校卒業してからじゃった、何時でんのごたる、むしろ芝居(村芝居)の、営所ん前から ちょいと北の方さん引込んだとこであったこつのあった。そん時、おはるしゃんてん、よも しゃんてんが、村芝居見たこつのなかち云いなさるもんじゃけん、呼うで毎日三人で、ばば やい達もつんのうて見に行きよった。一番前の棧敷じゃつたけん、めんめんで話しよっとの 聞えて、あたしどんが名前ば役者どんが覚えたじゃろたい、舞台の上から「オハルシャン」 てん「ヨモシャン」「ミチシャン」てん冗談どん云よったたい。

  お金取ってするときゃちゃんとむしろてん竹てんで囲い作るばってん、何かの記念てんお 祭りのとき芝居するときゃ、舞台と花道と楽屋だけかこいして、見物席やかこいもせんし、 早やかもんが勝ちで坐るとたい。いつのときでん、めんめんでござてん、ざぶとんてん持っ て行きよった。

  ずーっとのち、ああた達が小学校のまあだ下級生ん時じゃっつろ、日渡の方に芝居のあっ て、たいがい、祭文芝居ちうて、浪花節の芝居じゃったが、蛍川義光てろちうて、祭文語り ん来たときゃ、どんどんそりば真似してああた達が語るし、其後ピンスケち云う役者が、数 え歌んごつして歌うて、一節、一節のしまえに"チンガラガッタンカーマイド"ち歌うたげな もんじゃけん、面白がって、そりが真似ば、火なおらびして、"チンガラガッタンカーマイ ド"ち歌よったたい。

あのピンスケてろは、後に東町にあった活動館主に見込まれて、養子になって市会議貝にも 出たてろちうごたるこつじゃったばい。しっかりした男じゃったげな。あげな冗談のごたる 歌どん歌よったばってん。山本はいつでん恵比須座の棧敷ばおおかた一年中、取りっ放しん ごつしとりょんなさったごたるふうじゃん。

  あすこから行きなさらんときゃ、親類からお世話に成りに行きよった。ずうっと初手は、 電燈でんなかったもんじゃけん、舞台のへりにずうっと並べて、太かロウソクば立ててあり ょった。役者の出て来っと、花道んとこから役者に付き添うて、長か木の柄のついた先にロ ーソクば何本でんつけたつば持って来て、役者の動くとに合わせて、そりばこーうこう動か しよったたい。ありも動かしようのあろけん、やっぱチャンと練習しとかにゃんじゃっつう けん、素人じゃ出けんこつじゃっつろ。

  いつか加賀騒動か何かあったとき、まあだ小まか時じやったが見げ行った。お姫さんの大 事にしとんなさった小まか仏像ば中老に預けとんなさった、そりば悪者の御老女どんが盗う で、中老ば責め立ててどこ探したっちゃなかけん、その中老が呑み込んどるじゃろ、おなか たち割って探すちうこつになって幕になった。

あたしゃ便所に立って行ったばってん、席さん帰らんもん。おぢやいどんが連れて行こでち するばってん花道さん出るとこで、「おなか割るげなけん、えすかけん行かん」ち云うてしゃ がみ込うだ。「ありゃ芝居じゃけんすらごつたい、ほんなこつはお腹は割らんけんおいれ」 ち、おちやいがそうに云うばってん、「いや」ち云うて動かんけん、出ば待ってそこまで来 とったおなかたち割られ役のおやまが、減多笑いしよった。

そげんおやまが笑うたっちゃ、とうとうその芝居のしまゆるまでそこにおったりゃ、そげん おなか割らんでよかごつなって、めでたしめでたしで仕舞えたげなたい。

  そん時や舞台は大方御殿女中ばっかりんごつ多して美しかった。千両役者の下って来とっ たっじゃったげなけん、琴てん三味線てんば舞台で合奏して、ほーんに面白かったばってん、 そげんおなかば立割るてんなんてん云うもんじゃけん。

  その頃は千両役者ん来たときゃ、朝から芝居んありょった。朝早よから行かんなら、三番 叟は見られんもん、日の出の三番叟ち云よったげな。お弁当は向うで注文しよった。国分へ んじゃどうせ街さん行って買い寄せにゃんけん、注文した方が便利ち云うこつじゃった。注 文すると手提げのなかに何段でんお重の入って、それにお弁当の詰めてありょった。楽しみ で食べよったたい。

  もうお祖父っつあんも、ばばさんもおんなさらんごつなってからじゃったごたる、川上音 次郎ん来たつは。そうな前からの人気で、おまけに、入場券ば当日売りしかせんちうこつで、 恵比須座んにきゃ、入場券売りの始まっとば待っとる人で、道も通れんごつ一杯じゃった。 あたしとおっ母さんが先行って、お父っつあんな何事かで、後から来なさるごつなっとった。

切符売りん始まったところが、うしろから押すも押さんもどんどん押すもんじゃけん、ほん に死にげん目逢うた。ちようど鞍打の内藤伴次郎さんの来とんなさったりゃ、トンビの袖の 立派な物じやったつの、押されもまれて、ビリビリーッち裂けて破れたたい。お金持じゃけ ん、よかっつろばってん。

  そりからフウフウ云よったりゃ、お父っつあんの来なさった。ちょいとおらんごつなんな さったりゃ、札ば買うて来たち云いなさった。そっで、ようようぬけ出して、席には入られ たたい。そんときゃ前売り厳禁じゃったげなばってん、どこかそのへんの茶屋てんに、先並 びさせて買うとんなさった模様じゃん。

そんときの出し物な、一つは児島高徳の院の庄んとこば、する筈じやったげな。そりばって ん、久留米にゃまあだ電燈ん来ちゃおらじゃったけんで、そりが出来んち云うこつで、前狂 言がフランス革命で、切り狂言が高徳の代りにオセロじやった。その頃は、ハムレット、オ セロち云うセークスピアもんどんが、大流行しよった時代じやったたい。

フランス革命は、ちっとばっかり女学校で習うとったけん、まるで知らんこつじゃなし、オ セロてんな本で読うどったけんよう知っとった。舞台てん衣裳んちがうけん、そりゃ珍らし かちゃ珍らしかったばってん、そげん目トンボ返すごつあなかった。

  川上一座は久留米から長崎さん行ったげな。長崎じゃ電燈んあるけん、高徳ばしたげな。 おみきしゃんな、祐しゃんの長崎高商の教授しとんなさったけん、あっちで見においったげ な。そんときゃもう芝居に子供は連れて来ちゃ出来んち云うこつにあの辺ななっとったげな けん、子供さんな家に女と置いときなさったげなけんで、気になって落ちついて見られなさ らじゃったげな。

  昼芝居は、芝居どこの雨戸は全部開けてあるけん、割合舞台は明かるかったばい。棧敷代 出さにゃんとこもありゃ、追込みんとこもありよったたい。いつか伯母さんの来とんなさっ た時、朝早よ起されて、「早よ着物着らさい」ち着せられて、伯母さんから連れて行かれた。 どこに行くとじゃうかち思よったりゃ、ちーん行かん道ばさっさと行きなさるもん、いま考 ゆっと、新屋敷ん中さん通って行って早道しょっとじゃったったい。あすこんにき行きょっ とき、芝居見に行きょっとばいち伯母さんの云いなさったけん、恵比須座に行きょるんこつ んわかったたい。

  お祖父っつあん達の、年取んなさってからは車で行きょんなさったばってん、まあだ強か った時は、雨ばし降らんなら車じゃ行きょんなさらじゃった。遊楽に行くとに車にまで乗っ て行っちゃならんち云うて、歩いてじゃった。お祖父っつあん達や東京に行って、五代目菊 五郎てん、団十郎てん何てん、よか舞台で見て来なさってからは、やっぱこっちではよか芝 居は見られんち云よんなさった。岡野の碩おっつあんが、その頃、そげな劇の脚本かなにか 書きょんなさったげなけん、碩おっつあんの御案内じやったげなけん、千両役者が挨拶に来 たばいち云よんなさった。先生ち云うてー。

  お父っつあんの佐々の次郎助おっつあんと、山本の常寛さんと三人連れで、日清戦争のす ぐあとに北海道まで、膝栗毛しなさったとき、東京で千両役者の芝居見に行きなさったげな。 何せ田舎者で、何でんかんでん珍らしかふうで、劇場での入り方んようわからじゃったらし うして、一幕ごとに追出さるる席じゃったけん、追い出されて、また入り直しなさったてろ で笑い話になっとったたい。

  お仙八太郎ち云うとも芝居になったりしたこつんあったげな。
  庄島の者で江戸詰めしとるうちに女の出けて、こっつあん八太郎が帰って来たときゃ、女 のおなかに子供の出けとったてろで、奥さんにするち云うとったげなけん、あと追うて来て 途中徳雲寺の坊んさんと道連れになって、連れて来て貰うたところが、庄島にゃ奥さんもお りゃ子供もおったげなたい。

すったもんだで、八太郎がお仙ば豆津の浜のなんか葦どんが生えとっとこで切り殺して、自 分なまた江戸の方さん逃げて行くとに、宿に泊ったげなりゃ、お膳ば二人前持って来るげな もん。俺や一人とこに二人分も持って来てち云うと、冗談ばっかり云うてそばに奥さんの坐っ とんなさるち云うげなもん。

どこででん一人行きよっとに奥さんのおるち云われて、どんこん行かれんげなもん。そっで また引返して来たてろ、どうてろんとこば捕まえられて、のち打首になったてろで、幕末頃 で何せ大さわぎじゃったふうじゃん。そのお仙の殺さるる悲鳴ば、岡野の出入の者が聞いた げな。

朝早よ暗かうち川ん端のそげな葦どんが生えとっとこんにきば通りよったげなりゃ、女の悲 鳴のきこえたげなたい。そりからそのあとで、そこに殺されとっとのわかったち云うこつ じゃった。岡野は法泉寺の南で、そこからそげん遠かとこじゃなかったい。


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