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    とむらい
   
  村に死人のあっと、その組内の者たちが寄って来て、女は煮炊き、男は池堀りてん、竜口 てん何てん葬式用品作りや、親類縁者に知らせに行ったりばしよった。知らせにゃ一人で行 くもんじゃなかち云うて、二人連れじゃったたい。

  いつか元日にお屠蘇ば祝おでちしよったりゃ、どこからか知らせ状ば持って来た。女がそ りばおたかに取り次いだけん、おたかが「元日早々考えのなか、そげん、もうさあち云う間 柄でもなかつに」ちほーんに腹立てて、その知らせ状ば、持って来た者のおる格子の間さん、 ポーンとほん投げたこつのあった。かねて物ば投げてどん渡すごたる不作法なおたかじゃな かったばってん、向うがちょいと考えのなさ過ぎたけん、腹立ててそげなこつしたったい。
初手は知らんばってん、たいがい死んだ翌日お葬式するとが普通じゃったたい。友引てろ の日は、お葬式は初手からしよらじゃった。

  煮炊きの方はたいがいそこ辺の習慣、に従うて、お見立てお膳どんが出来よった。何せ物 入りじゃけん、なるだけ費用のいらんごつち年配のばばさん、おばさんどんが、とりしきっ て、してやりよったたい。お見立ての献立は、ずーっと初手はどう云う風じゃったか知らん ばってん明治中頃過ぎてからは、たいがいは、豆腐、油揚、こんにゃく、季節のお野菜でお ひら、がめ煮、味噌汁、何かのぬたかなますどんじゃった。豆どんがあるとこもあったたい。 こりゃ世の中の何でんが大分豊かに成ってからの献立たい。

  初手は、この辺な土葬じゃったけん、池堀りち云うて、お墓山に穴掘りに行きよったけん、 その方にもおにぎりの大っか丸握りばお酒と一緒に持って行きよった。初手はそっで丸握り のおにぎりは、忌み物ち云うて、かねては三角握りにしか握らじゃったたい。

  お棺な、かめに入るるとこは、初手はあんまりなかった。普通んとこは桶ばっかりじやっ た。そっで昔のお墓は、年月の経っとお石塔の下に、なーにん無かった、ち云うごたっとこ の多かったげな。身分のあるとこ辺んな、お棺の上に平石に死んだ者の経歴ば書き付けて、 石蓋の銘、ち云うて、蓋のごつ乗せて、埋めよったたい。本来なら刻みつくるとじゃうが、 うち辺ぐらいの処迄は、墨で書くだけじゃったけん、年月のたちゃ、わからんごつなってし もうとうたい。

  お葬式の済むと、翌日"桶すすぎ"ち云うて、前の日の加勢人達が行って洗い物てんして、 あと片づけの済むと、こんだ、そこの家の者と親類縁者が、加勢人達に、前の日の残りもん てん、新しう作ったもんてんで、お膳どん出しよったたい。

  死んで六日目は"お逮夜(たいや)"ち云うて、組内てん縁者ば呼うだり、配り物するとこも あった。七日、七日は四十九日までしよった。お配り物やったり、お膳出したり、そりゃた いがい身近か親類からおごちそば持って来よった。せり箱に何段でん入れて、お茶沸しち云 うて……。そりばってん、四十九日のうち一回は抜かすもんち云うて、仕やおらじゃった。 四十九日の日ばれが、三月(みつき)にかかるときは、たいがい取り越して二ヶ月で打切りよ ったたい。

  初手は村の葬式のとき、村ん者がどげな着物どん着よったもんじゃり、あたしどんが覚え てからは、もう大分世の中も変っとっつうけん、近親者は白無垢で、帯も白にしよった。女 は綿帽子どん被って、竹ん皮ぞうりの緒に白か布てん紙どん巻いて白緒にして履きよったた い。

  白足袋はいてー。帰りゃそりば、はき捨てて来るとこもあったけん、お墓道の川原てん、 藪のきわどんに、よう白緒の草履の落ちとりよったたい。

  男は紋付に羽織着たり、袴つけたりしよった。初手は紋が真白で模様の無か紋付どんが多 かった。身分の無か者な紋に模様つくるこつの出けじゃった殿様時代の名残じゃっつろたい。

  女はお精進髪ち結よった。前髪ばふくらかさず.両びんの髪もひかえ目にふくらかして、ま げの根ばうしろよりにひく目に取って、まげも"つぶしまげ"ち低う曲ぐるたい。興子田の誰 かのこ葬式の時おっ母さんの、人力車に乗って行きよんなさっとば、荒甚の番頭さんが見か けて、「真藤ん奥様んお精進まげ結うておいりょりましたが、どなたの御不幸でございましつ ろか」ち山本で聞いたげな。そげな風で髪見ただけで不幸のあったこつの初手は知れよった たい。


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