千体仏称名庵


慶長元年のころ、柳河城主、田中吉政の家臣、林五郎左衛門夫婦が、 清水観音に祈願して授かった美女子、林操が十六のとき、藩士京都幾 之助と養子縁組の婚約がととのったが、これを妬んでいた宮川右内に 幾之助は殺害された。
苦節八年、操二十四歳のとき夫の仇右内を討ち、のち尼となり、夫幾之 助の菩提をとむらい、仇右内の冥福を祈り、千対の阿弥陀仏像を祀って、 称名念仏に明け暮れ、八十余歳の生涯を静に閉じたという・・・・・・・ 即ちこの庵である。(説明板を参照)

これは庵の内部です
阿弥陀さまの横に小さい仏像が沢山祀られています


清水の地図