草野の伝統的町並み


草野町は中世の豪族、草野氏の勢力を背景に、筑後国の一大拠点として栄えました。 平安時代木から安土二桃山時代にかけての約424年間の栄枯盛衰の面影を、今なお山麓に 営まれる寺院や神社、中世の城跡などの随所に見ることができます。

中世の歴史と文化をたどる
草野のまち歩き

筑後国成立と草野氏の入国
源平合戦の手柄で
筑後国在国司となった草野永平

発心山に登ると、筑後平野一面に広がる農地の中に碁盤 の目のような1町(約109m〕四方の出畑が見えます.これ は古代に施行された条里制という農地整備の痕跡で、国や 地方国衙(役所の意味〕の租税確保と、班田農民への口分田 配分のためのものでした.筑後国はもと筑紫国に含まれて おり、695年ご頃、分国によって筑後国の政庁が置かれたと考えられます。

筑後国は10の郡からなっていましたが、その中の山本郡は現在の草野、 山本、善導寺、大橋の4町を合わせたものでした。国には国衛、郡には、 郡衛が置かれ、政治的、文化的中心となりました。草野が歴史の舞台で 脚光を浴びるのは、平安時代も末期になってからです。長寛2年(1164) 草野永経が肥前国高木より筑後に入国し竹井城に居城してより、歴史は 草野氏とともに展開することになります。草野氏は源平の戦いで、 太宰府に入った平家に対して各地を転戦して源氏側を勝利に導き、 源頼朝から文治2年(1186)には永経の子永平が筑後国在国司に任じられ、 所領3千町歩を有するゆるぎない基礎を築きました。

今日も営まれる寺社は草野氏の援助により開元建立されたもので、 歴代の草野氏によって手厚く保護され、耳納北麓に宗教文化が花開きました。

南北朝動乱

懐良親王と戦乱の世

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、延元3年(1338)、九州での南朝(官方)組織のため、 征西大将軍として派遣され、瀬戸内海、豊後水道を経て4年後に薩摩谷山に上陸の後、 その活躍が始まります。正平3年(1348)には肥後の菊池武光に奉ぜられ、菊池阿蘇の 軍勢に支えられ肥後託磨原の戦いで足利直冬を、次いで筑後大保原の戦いで少弐頼尚を 破り、正平16年(1361〕には太宰府を征圧し、九州における南朝全盛期を生み出しました。

しかし、文中元年(1372)、北朝の九州探題今川了俊によって太宰府を奪取されると、 高良山などに拠って抗戦したもののふるわず、弘和3年(1383)に親王が死去するや 南朝は衰退に向かい、明徳3年(1392)南北朝和議が成立し南北朝時代は終わりを告げます。

この南朝、北朝、佐殿方(足利直冬)の激しい激突の中での草野氏の動向は「草野文一書」 によって明らかにすることができます。南北朝前期は文書に北朝年号を使い北朝方(足利) 方落として戦い、その後、観応2年(1352)の擾乱では一時期足利直冬方に、そして文和2年(1353)から は南朝方につき菊池武光から軍忠状の証判をえるなど、まさに動乱の世相を反映するものでした。

発心城築城と草野家滅亡

生き残るための発心城築城

戦国期末、大友、島津、龍造寺の抗箏の中で、筑後の弱小の豪族は烏合集散していました。天正5年(1577)草野氏の末裔家清は、この戦乱を生きるため吉木八幡宮の裏にあった父祖代々の居城である吉木の竹井城に不安を漢字、見晴らしの発心城を築城します。翌年、大友勢が日向耳川の合戦で島津勢に大敗し、筑後の豪族の大半は龍造寺に服属することになりました。草野の諸家が発心城下に移り、天正12年頃大友宗麟に背いた家清は高良山良寛や秋月長門の守軍勢により3年に及ぶ攻撃を受けますが、一向に落械しませんでした。.九州千早城と呼ばれる由縁でもあります。

草野氏の最期

天正14年(1586)島津軍が軍が北上し筑後を攻略したため、 おおとも方は秀吉に救援を求めました。翌年、秀吉は島津討伐のために 九州に向かいます。島津氏が秀吉にに降りると、家臣蜂須賀家政によって家清は肥後一揆に加担した疑 いにより肥後南関で誘殺され、草野一族郎党百余人は、涙をのんでこの城の地蔵鼻で自刃しました。天正16年(1588)、草野永平以来、二十余代360年もの間、耳納山麓に権勢を張った草野家は滅亡し、ゆかりの 寺社も哀退していくこととなります。

●発心公園

久留米藩主が花に酔い
酒に酔った発心公園

今も発心山頂を中心として、東西350m、南北約300mにおよび、木丸の他に川丸、見張り台、堀切が残る壮大な山城跡があります。発心公園は筑後に権勢を張った.草野氏新居館跡といわれており、有馬頼をはじめ久留米歴代の藩主が好んで桜を見物した場所です。松の緑に囲まれた合いに700本の桜が花のトンネルをつくっています。

木のもとは汁も 膾も桜かな    (松尾芭蕉句碑)

芭蕉句碑は別名桜塚と呼ばれ、文化年間(1804〜18〕に京都の俳人五升庵 瓦全の文字が刻まれたもの。瓦全が主宰していた「桜会(さくらえ)」と筑 後の俳譜グループとの盛んな交流の証でもある。桜色にそまった山肌は、 久大本線の車窓からも見ることができる。

草野の復興

街道の賑わいを物語る
歴史的町並み

天正15年(1587)、秀吉の「九州国割」で久留米城に人国したのが小早川秀包ですが、 永勝寺に放火するなど寺社も必ずしも安全ではありませんでした。関ヶ原の戦いで 西軍に参加し敗北した後、慶長6年(1601)には田中吉政が筑後に国主として入国し、 新道をつくって町を建て、善導寺などの有力寺杜の再建にとりかかり、その後、有馬豊氏 が筑後北半21万石の大名として入国し草野の町は再興されました。

町家の町並みと農家の町並み

江戸時代、久留米からの日田街道は山川町の追分けで川辺道と耳納山麓へと向かう 山辺道に別れ、草野はこの街道沿いの宿駅として栄えました。道沿いにある須佐能衰神杜 を中心に元禄8年(1695)頃には長さ5丁、軒数140軒余りの様々な生業をもった民家が集まり、 大変な賑わいでした。草野の代表的な民家である「鹿毛家住宅」(県指定文化財)も 江戸時代より醤油や櫨蝋製造、質屋などを営んでいました。18世紀後半に建造された建物は 町家としてはもっとも古いもので、かつては数十棟の蔵が屋敷内に建ち並んでいたといいます。

草野に隣あう矢作地区は、南北に走る矢作道路にそって、腰板しっくい塀水路や布積みの石垣、 江戸時代から大正時代の地主や豪農たちが築いてきた伝統的な農村集落の町並みが残ります。

右上/耳納連山を背に、山辺の道沿いに江戸時代の町家の姿を残す鹿毛家住宅。これらの 責重な古民家は11月、櫨並木が色づく頃に「筑後草野のまちかど博物館」で開放される。 右下/矢作地区は水路と石垣がめぐる農村集落の町並みが残る。

●山辺道文化館

伝統と祭りを伝える 山辺の木造洋風建築

耳納山麓を通る「山辺道」の名を持つこの文化館は、大正3年頃に建てられた旧中野病院を 歴史的建迫物として保存したもので、国の登録文化財に指定されています。草野町の伝統文化 や町並みに関する資料の収集、地域の人々の交流拠点として、平成10年にオープンしました。 九州においてもこれだけの大規模な木造近代建築が現存することは珍しく日本に近代的な 病院建築が輸人きれ、地方に定着していった時代の貨重な資料でもあります。. 「須佐能哀神社神楽祭」「若宮八幡宮神幸祭」といった祭りに関する資料の展示などをしています。

開館時間          午前10時〜午後5時 入館料           無料 休館日           月曜日、祝日の翌日(躍日を除く)、年末年始 問い合わせ        山辺道文化館TEL0942-47.3015

●草野歴史資料館

草野の歴史文化の宝庫
もと草野銀行本店

草野町の、伝統的町並みの特色である和洋折衷の建築が、有力者達によって建設されたのは、 明治、大正時代でした。明治44年(1911〕に建設された草野銀行本店は、現在歴史資料飢として 公開され、国の登録文化財に指定されています。観興寺縁起など草野氏その周辺の歴史に関する 貴重な収蔵品を展示公開し、草野氏ゆかりの寺社や草野地方生活を知ることができます。

開館時間        午前10時〜午後5時 入館料         小・中学生50円個体30円〕高校生以上100円(団体80円〕 休館日         月曜日、祝日の翌日(日曜日を除く)、年末年始 問い合わせ      草野歴史資料館TEL0942.47.4410


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