青木繁とけしけし山(兜山)


3月25日は久留米が生んだ天才画家青木繁の命日で、毎 年3月下旬に日吉町順光寺と兜山、通称けしけし山(山の 上に松林がある様子が芥子の実に似ていることから)を結 んで天折した才能を偲ぶ「けしけし祭り」が行われます。  

時に天才、時に狂気 早すぎた天才
青木繁が愛した山

青木繁は日本洋画界の鬼才で あり、革命児でした。明治15年 (1882)久留米市に生まれ、家は 久留米藩の茶道家で厳格な家風 であったといいます.後に繁と は対照的な画壇の寵児となる坂 本繁二郎とは久留米尋常校高等小 学校の同級生でした.17歳の時、 繁は島崎藤村の「若菜集」冊を 懐にいれ、洋画を学ぶために上 京、東京美術学校へと人学しました。その後、帰郷した折 りに、繁二郎を伴って東京に戻りますが、紺の着物にシル クハットという破天荒ぶりや傲慢さによって、繁'二郎や周囲 ともぎくしゃくしはじめ、作品も時には天才、そして時 に狂気と評されました。

明治36年(1903)、『黄泉比良坂』、で第一回白馬会賞を 受賞。その年に福田たねと出会い、恋に落ち、房}州仙良へ の写生旅行で彼女をモテルに代表作「海の幸」を仕上げま す。神秘的な生命の躍動感を描きあげたこの作品は、当時の 画壇に衝撃を与えました。やがてふたりの問に幸彦(福田 蘭童)が生まれます。しかし、たねの実家で描きあげた「わ だつみのいろこの宮」は、観衆の評判が高かったにもかか わらず、審査結果は.三等末席。これに対し繁は激しい審査 批評を展開し、文展でも落選。やがて画壇から追放される 運命をたどります。郷里の父は事業に失敗し病床にあり、 どん底の貧しさの中でカンバスを買うお金もなく、これら の作品は帆木綿に描かれていました。

苫悩 放浪 望郷の、思い

晩年・父の危篤で、子供を抱いたたねとも別れて帰郷し た繁は憂さを酒でまぎらわし、母や兄弟とも衝突します。 十五夜のお月見の晩、ふとしたことから兄弟喧嘩をし、母 から出ていけとわれた繁。「ここは[自分の家だから出て行 かぬ」と言いい張る繁に、母は兄弟をつれて実家へ帰っていき ました。その夜、あまりに気に掛かり閉まっている戸の節 穴からのぞいた母が見たものは、蝋燭を立てて大きなカン バスの前に腰掛けて腕を紺み、目から涙を流してそのカン バスを見つめる繁の姿でした。その寂しさに母は叫ぶこと もできなかったといいます。次の日に行くと、カンバスは バラバラにちぎられていて、繁は姿を消しました。故郷を、 家族を捨て、放浪の旅に出た繁は無軌道な生活にその命を 削り、その4年後に博多の病院で最期を迎えました。空中 に手をのばし何かを描こうとして、そのままだったといい ます。28歳の春でした。

生前に繁が愛してやまなかった兜山の頂きには、繁の望
郷の歌刻んだ碑があります。

わが国lは筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国

歌碑の前で、献花・献茶、こどもたちの合唱が行われる。歌われる『母い ます國』は、繁が詠んだ短歌に2歳で父と離れた福田蘭童が曲をつけた。繁 は生前に入院先から「残りたる骨灰は序での節高良山の奥のケシケシ山の 松樹の根に埋めて被下臥小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫 平野を眺め此世の怨恨と憤懸(ふんまん)と呪誼(じゅそ)を捨てて静かに 永遠の平安なる眠りに就く可く候』と姉妹に書簡を送っていた。

海の幸「1904年 石橋財団 石橋美術館 蔵 カンヴァス70.2×182.0cm
古代の神話を連想させる壮大な構図をなす青木の最高傑作。 中央よリ右のこちらを向く青年の唇だけが赤い。 布良の海岸に遊んだ
恋人福田たねの顔である。
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