菊竹六鼓


戦争の世紀といわれる二十世紀。人権と民主主義を守るため報道の自由に貢献した「世界の報道人百人」に、菊竹六鼓は大阪朝日新聞の長谷川如是閑とともに・日本からただふたり、世界新聞協会(WAN)に推薦されました。「個の自由、個の権利を尊ぶ精神は、今でも輝きを失うことはない」とは推薦に記された言葉です。

吉井が生んだ
反骨のジャーナリスト
菊竹六鼓

明治13年、六鼓、本名淳は吉井町の大地主の次男として生まれました。2歳の時、左足の怪我で生涯ハンデを負い兵役から遠ざかった青年期の焦燥は正義への信念をかきたて、やがて六鼓は武器をペンへともちかえ、福岡日日新聞社へと入社します。記者生活を羽織袴で通し、熱情たたえた眼光で生涯「古武士」の異名を取る新聞人でした。

「うちはいつもの通りに
いきましよう」

反骨の25歳の夏、ある少女の死をいたんでつづった論説「理想の死」は六鼓にとって記者としての意を決めるものとなります。日露戦争のさな力国中が高揚していた時代に六鼓が選ん題材は福岡市郊外でおきた踏切事故でした。鉄道踏切信号手の娘である山崎お栄は11歳、母の法事で仕事に出られない父にかわり4つの信号を守っていました。汽車の接近に気付かず渡ろうとする人がいる。お栄は2木の旗を握り走り出します。「列車来る!列車来る!危険也、避けよ避けよと大声で呼べリ。しかれども何語とぞ。人は尚知らざるものの如し。彼女は遂に職務に倒れぬ」六鼓は続けます。「東郷大将をださざりしことは決して、福岡県民絶大の恨事にはあらず。しかれども一少女お栄を出したりしことは福岡県民の永遠の誇りなり」 少女の死をいたむ市民の目線を持ちながら、日露戦争の講和支持を訴え抜き、売春廃止の論陣で暴力団に脅された時も筆を曲げることはありませんでした。昭和7年5月15日、陸海軍の青年将校らが首相官邸に乱入し、当時の首相犬養毅を射殺した五・一五事件が勃発し、16日の福岡日々新聞に、六鼓は首相兇手にたおる」の論説を執筆します。軍部の暴走をいさめたのは日々新聞ただ一社。そんな中、翌朝刊でも「敢て国民の覚悟を促す」の論陣を張り、軍部からは抗議、威嚇が相次ぎ新聞社爆破の噂も流れました。「うちはいつもの通りにいきましょう」事件の朝、六鼓は編集局長へそう言ったといいます。

「春を春らしくするために
一度は雪が降る」

一歩も譲らぬ反骨精神を人々は「巨人」と評しましたが、殉死を覚悟した悲壮な決意と孤独を娘への手紙に託していたことを知る人はいませんでした。六鼓は秋霜烈日だけの人ではなく、周囲を春風のように包んだといいます。淡雪が降ります。春を春らしくするために、一度は雪が降るのです」とは愛娘への手紙の一節です。物欲のない六鼓の家は貧窮し、夫人は質屋通いを続ながら五人の子供を育てました。右翼の輩にも毅然と立ち向かい、苦労をものともしない妻に感謝し、廃娼を唱えながらも、ただの男へと還り、原鶴旅館で道ならぬ恋に耽溺する日々もありました。朝5時に起き、深夜まで原稿に向かう日々の六鼓はついに結核に倒れ、自分の死が目の前にあることを知った昭和12年7月21日、仕事仲間、家族のひとりひとりを枕元に 呼んで手を握り、この先どうあるべきかをしっかりと伝え、「これで助かったらキマリ悪いな」と最期の微笑みを浮かべ、やがて静かに目をとじました。

●菊竹六鼓記念館

昭和38年、町の有志によって建てられた記念館。 六鼓の愛用の品や遺稿などを見ることができます。 休館日      月曜日12月29日から1月3日 入館料      無料(見学は要予約教育委員会 TEL 09437-5-3343)

●コスモス街道

「天高く、地にコスモスの花」
ジャーナリスト達が愛した
可憐な花

六鼓はコスモスを好んだといいます。秋には女学校連合競技大会で挨拶の度に「天高く、地にコスモスの花」と言いコスモス演説と呼ばれました。この花については、六鼓が慕っていた福岡日々新聞社長征矢野半弥が「珍しい西洋の花だよ」と郷里に種を蒔いたからという説も伝わっています。 征矢野は明治の始めに自由民権運動一憲政実現のために白刃の修羅場をくぐった人物で、その遺愛の花です。五・一五事件の社説はひとつには亡き征矢野への手向けであったともいわれています。 秋、吉井の町には国道210号線バイパス沿いに、幾万本のコスモスが可隣にゆれます。ペンを片手に日々戦った彼らが、愛した花です。

江南校区の町の入々の取り組みがこのコスモスの花を見事に咲かせる。 秋には「よしいコスモス街道花まつリ」も行われるようになった。

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