奇岩と長岩城


長岩はそそりたつ奇岩の下を隈上川の渓流が流れる景勝地で、秋には美しい紅葉に彩られます。七つの岩からなるため「七つ岩」の別名があり、筑後の豪族問註所就氏の居城があった由緒ある史跡です。その所領は、生葉・竹野二郡のうち十五村三百町であったといわれています。正和2年(1313)に三善康行が源氏にゆかりのあるこの長岩に城を築き、慶長3年(1598)に門註所統景の子政連がこの長岩を開城するまで、実に285年間、浮羽統治が続きました。

奇岩に守られた難攻不落の隠し砦

戦国時代、耳川の戦いで島津氏に敗退した大友氏は衰退の一途をたどり、大友氏の勢力を離れた城主郡主が、竜造寺・秋月・星野などの勢力をうかがって離合し戦乱が続きました。九州のほとんどが島津方へとつく中で、統景は岩城に籠城し、秋月、星野、島津の攻勢の中で最後まで降伏しませんでした。やがて豊臣秀吉の命をうけ島津討伐に赴いた小早川隆景に・統景は次男を人質として差し出し、秀吉の九州平定を助け数々の功績を残しました。しかし、文禄元年(1592)朝鮮出兵に参加して戦死し、統景は問註所家最後の城主となりました。

本丸跡の背後には医者屋敷と倉庫跡と思われるところが残っています。東側にある松尾城跡が実は戦略拠点であったといわれ、背後の鞍部にある千人塚という地蔵堂が、絶壁の奇岩に守られた隠し砦を舞台とした戦乱の激しさを物語っています。 秋は紅葉の名所として知られる長岩。


●窟屋権現


雨乞いに霊験あらたか奇岩の神社

つづらと深野の間にある高さ35mの巨岩「窟屋権現」は、雨乞い神様です。石碑によると「明治六年うち続く大旱魃に葛籠区民は日田の田代権現に雨乞いをした。効果は忽ち現れ、慈雨は田畑を潤した。区民は奉謝のため、近村を神輿をかついで馳せまわった。事終えて祭具を岩上においた。

翌七年の初秋台風吹きまくり、大樹はおろか人家の倒壊するもの数知れず、しかし不思議なことに岩上の祭具は依然として旧態のままであった」とか。鎖を握りしめ、冷や汗ながらにのぼれば絶景が広がります。

 

●田篭諏訪神社・粥占いと注連杉、

青カビは大雨、黒カビは天変地異?

承元元年(1207)、源頼朝の命により豊後国津江七郷を所領した長谷部信連が、信州の諏訪明神を移し総鎮守としたのが田篭諏訪神杜の創始で、以来田篭の氏神様となりました。烏居の両側に、幹廻り4mはある注連張りの杉の御神木(町指定天然記念物)が悠々と天空に伸びています。

毎年行われる「粥占い」は天明2年(1782)から続く伝統行事で、1月15日に神社総代が持ち寄った新米三合三勺でつくった粥を皿に盛り、木製の御粥箱に入れ、二月卯月の日(現在は3月30日)にとり出して四等分し、筑後、筑前、豊前、豊後の気候を占います。白は雪、青は大雨、灰色は病害虫を招く高温多湿、黒は天変地異、赤は異常乾燥。はえ具合いを記録した「表絵記録」は県指定文化財です。



●くど造り民家

建築のふるさと「くどづくり民家」

田篭地区日森園にある平川邸は、台所と母屋を土間で結び合わせた「くど造り」という九州独特の民家です。19世紀頃の建築で昭和46年に福岡県の民家ではじめて国指定の重要文化財となり、その美しさと、災害に耐えるため永い年月をかけて練りぬいた技術が見直されるきっかけとなりました。

くどづくりとは屋根のかたちが「くど」(かまど)に似ていることからそう呼ばれ台風に強くするために屋根の形を複雑にしたといわれています。釘は一本も使われておらず、家の中央には「ごぜんくど」というかまどがあり、芋を保存するための穴貯蔵庫やめずらしい湯あび場などに、昔の暮らしぶりをうかがうことができます。 

平川邸は、ごく最近まで実際に使われていた。
3つの世紀にまたがって、農村の暮らしとともに
残った貴重な文化遺産である。


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