高良の名義
六、景行天皇行在所

「肥前風土記」の中「養父郡亘理郷やぶぐん・わたりごうの件に「昔は筑後国御井川の渡瀬甚だ廣く人畜渡り難し。茲に於いて纒向日代宮まきむくひしろぐうの御宇の天皇、巡狩の時、生葉山に就き船山となし、高羅山につき梶山と為し給う」と記されてある。纒向日代宮まきむくひしろの御宇の天皇は、第十二代景行天皇で、御井川は筑後川、生葉山は水縄山、高羅は即ち高良で、梶山は高良山の東北方の山に尚其名を残して居ると。
以って高良山が既に景行天皇と関係あることは明らかであるが、尚、同書中「基肄郡」の件に「昔は纒向日代宮まきむくひしろの御宇の天皇、巡狩の時筑後国御井郡高羅の行宮に御し、国内を巡覧なし給う」とあり、次いで同書「長岡神社」の件に「天皇高羅の行宮より還幸し給い、酒殿泉の邊に在りし給う」と、酒殿泉と今の佐賀県三養基郡基里村酒井の付近にあった泉であると云うのを見れば、天皇は高良の行宮から三養基郡の方へ行幸遊ばした事が窺われる。
是を正史に徴せば、天皇の十二年七月熊襲くまそ叛き、八月車駕親政征、豊前・豊後・日向の地方を征し給うて年あり、十八年三月、将に京に向かわんとして筑紫国を巡狩し給い、七月四日御木国(三池郡)に至り高田行宮に在し、七日八女縣に至り、八月浮羽邑うきはむらに至り給い、十九年九月都に凱旋遊ばされた(日本書紀・大日本史)とあれば、九州の御滞在は實に七年間、然して高良の行宮に在りしましたとすれば、浮羽の地から都に御凱旋遊ばす其の御途上ではなかったか、又其の行宮の御跡を索れば果たして何処と推定すべきであろうか。
高良神社の社殿が昔は今の如く広壮な建物でなく、其の社地も初から標高230米の今日のところでなかった事創造せられる。「筑後国史」中「古宝殿城址」の條に「相伝う、上古の社跡にして、是若し肥前風土記の所謂高羅行宮こうらあんぐうの跡に非ざるか」とあるのを見れば、社地の移転した事も窺われ、古老の言に「昔は社殿が今の社前石段下の廣場にあったと伝えられる」と言って居るが、尚、「御井寺記録」に「貞観十五年(西暦873年)本地堂を社壇の巽(東南)角に建てた」記事が見える。
寛政元年(西暦1789年)出版の「高良山今時図」では本地堂は社殿の北側、即ち今の社務所の位置に在る。さすれば社殿が移転して現位置になったか、本地堂が改築される時其の位置に移ったのか。後者であれば問題はないが、前者とすれば社殿はもと今の石段下北寄りの場所となって古老の言を裏言する事となる。
其の付近の小字を今でも「アゼチ」と呼び「安住地」と漢字を宛てる。此の地より望観すれば、筑肥一帯を見透す屈強の要所である。此等から推して所謂高羅の行宮の御遺跡を此の付近に推定する事も強ち無理ではあるまい。
高良社の創建は履中天皇元年(西暦400年)と言われ、景行天皇の御駐輦ごちゅうれんよりは三百五十年後のことである。
最初の社地がまだまだ麓の方にあったかも知れないが、其後次第に改築せられる時此の由緒の地に建てられ、後更に上段に移して今日の社地に変わった物と思われる。

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