高良の名義
七  神功皇后駐輦地

神功皇后御征西の折、錦の御旗を建て給いし処が現時の御井町の北方なる旗崎で、其地名箱の由緒によって附けられたものであると伝えられる。
其御遺跡に就いて、高良山座主寂源僧正は、「高隆寺鐘名の序」に「高隆寺は、往昔神功皇后征西の営地にして、隆慶上人草創の梵刹なり」と書いて居る。高隆寺とは高良山中に建てられた最初の寺院である。後年は山中北谷に在ったのであるが、初は山の麓なる旗崎附近に建てられて居たようである。
其の地が即ち皇后後営地の跡であると云うのであるが、然らば其の地点は何処に推定すべきであろう。「筑後志」に「旗崎は高良山駐東光寺古城の附近」とあり、「東光寺城址」に就いて、「筑後国史」には「高良山北麓阿志木村中孤岡あり。地名を東光寺と言い、一名長増山、又茶臼山」と記し、又「筑後志」中「旗崎招魂所」の條に「招魂所を高良山下の山川村字旗崎なる茶臼山に創設し」た事を書いてある。以上を持って類推すれば、現時の山川招魂者の所在地が茶臼山で、茶臼山は一名東光寺とも云い其の附近が旗崎で、神功皇后の御営地の遺跡であり、高隆寺は其の由緒の地に建てられた事となる。依て皇后の御旗を建て給いし御遺跡は現時の山川招魂者の附近であると云なければならい。
山川招魂社(山川招魂社は明治二年(西暦1869年)二月、旧久留米藩主有馬頼咸、初めて招魂所を設け高山彦九郎、真木和泉を初め維新頃の王事に斃れた藩士の霊を合祀し、後同六年八月官民有志力を協せ御楯神社を建て後陸軍墓地となり同七年佐賀の乱を初め其の後の戦没者を弔う処としたもので、高良神社の兼掌である。
皇后が筑後の地に行幸遊ばした年代に就いて、正史には仲哀天皇は其九年二月六日筑前にて崩御し給い、皇后は三月十七日橿日(香椎)を御発輦、所々の賊を平らげられて二十五日山門県(山門郡)車坂に在らせられ、梟賊土蜘蛛田油津姫きょうぞくつちぐもたゆつひめを誅し給うた、とある。
三潴郡大善寺村玉垂神社所蔵で国寶となれる、建徳元年(西暦1337年)に出来た繪縁起ええんぎには神功皇后征韓の事を描かれ、其社地の古樟に皇后の御船を繋がれた傳説があり、同郡風浪神社の社傳にも皇后の御船が榎津に着いた事を記されてる。
征韓の役は正史に徴して此の田油津姫御征伐の御時を誤り傳得られたものである事は明らかであるが、此等を総合して皇后は筑前香椎から御笠(筑紫郡)へ出られ筑後川を渡られて旗崎に御駐輦、錦旗高く茶臼山上に掲げられて皇軍の意気を示され、転じて三潴地方から山門郡へ向わせられたものと察する事が出来る。

白露の玉たれながし秋の宮  柳几

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