御井寺
三八、御井寺

是より先明治元年神佛判然令の下ると共に特使亮憲は三門跡の令旨を携えて五月下向し、二箇条の訴状を当時の知藩事たりし舊藩主頼咸に提出して蓮台院復興の事を嘆願したが、六月「蓮台院の復興に就いては追って沙汰する」旨の口達をうけて亮憲は帰国した。翌七月頼咸は久留米城を知藩事の官府となし、自分は高良山本坊に居を移して難を避け、日々舊久留米城なる知政府に出勤して政務を執って居たが、翌三年朔日、正福寺なる亮恩に宛て

元御井寺蓮台寺の儀は、朝廷より仰せ出され候御趣意に付き両部の差別御取調中、往時亮俊不都合の儀是有り、其儘廃寺に相成り候処、舊来格別の寺院柄の儀に付き語詮議遂げられ、其寺号御井寺と改られ、十人扶持寄附、寺格中士族に準ぜられ候事

との申達書が届けられた。其年十二月頼咸は所謂良山御殿を引き払って上京し、翌年四年三月其の跡はくるめ藩難事件の為出張して来た井田巡察使参謀や巡察使陸軍少将四條隆嗣の本営となったが其の年高良玉垂宮は高良神社と改称し国幣中社に昇格するや、其の後宮司邸として其の跡を襲用し、御井寺は八年本山より亮憲再び下向して住持を兼ねたが

十一年四月、地方聴の許を得て高良山下寶蔵寺跡の丘上に新建したものが現在御井町所在の蓮台院御井寺である。

高隆晩秋     北村詩吟

峯高くたふとき此寺の みのりや告ぐる入相のかね

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