高良神社
三九、高良神社

高良玉垂宮が高良神社と称することと成り、国幣中社に列せられたのは明治四年六月の事であるが、同年五月十四日附太政官令「中古以来大道の陵夷に随い神官社家の輩中には、神世相傳由緒の向きも有り之候へ共、多くは一時補佐の社稷その儘沿襲致し、或は領家地頭世変に因り、終に一社の執務致し居り、其余村邑小祠の社家に至るまで総て世襲と相成り社入を以って家禄と為し(中略)伊勢両宮世襲の神官を始め、天下大小の神官社家に至るまで精選補佐任可致」旨の達示により、従来の大祝大宮司等を止めて新に官国幣社家職制による宮司以下の職員を補佐して面目を改めたが、次いで大正四年十一月、国幣大社に昇格せられ、特に金五百円の御下賜に預かった。従って現時の職員も職制によって宮司(奏任)一名、禰宜(判任)一名、主典(判任)三名、其の他出仕四名等で奉仕の任に当たっている。

 現時の祭礼では、十月十三日の例祭、二月十七日祈年祭、十一月二十三日新嘗祭の三祭にはいずれも

は何れも大祭して地方長官は幣帛共進使として参向するが、此外一月一日歳旦祭、一月三日元始祭、二月十一日紀元節、四月一日朔日祭、同十五日月次祭、陰暦正月一・二・三日春祭、同十五日玉替祭、同六月一日川渡祭(へこかき祭)、九月九日・十・十一日秋祭(おくんち)等があって賽者雑踏し、又三年一回古式に則って朝妻頓宮への神幸の式も行われる事になって居る。

 昭和九年一月二十一日献詠祭が古式に拠って初めて行われた。其の状況に就き新聞は左の如く報じた。

 久留米市外高良山上に鎮座まします筑後一の官国幣大社高良神社では予ねて募集せる国風の献詠祭並に披露式を廿一日午後一時より矢田宮司以下職員奉仕を以って荘厳盛大に執行、祭式後社務所に於いて矢田宮司が拝観の体験ある宮中御歌會始めの御模様に就いて談話を為した。当日は寒気殊に凛冽で山上の雪風堪え難き程なりしも、斯道造詣深き立石好人、石橋為次等の諸氏を始め三十余名の参列ありて盛況を呈した。因みに献詠歌は八十余首に及びたるが披露されしは左の十二首であった。

 年越しのみ前の鼓音さへて かがり火あかし御井の神山    三井  柏原くに

 千早振る神代のてぶり傳へ来て かがり焚くらん御井の宮人  山門  徳永桂堂

 もえまさる神の斎庭のかがり火は ひとの心のやみもてらさむ 浮羽 佐々木祖山

 祈りつゝなほたきそふるかがり火の あかき心は髪もうくらむ 久留米 立石好人

 いくさ神かうらの宮のひろ前に ほむらいかしく燃ゆるかがり火三井久保市 福久

 くまもなく照らす宮居のかがり火は 神のみいつの姿なるらむ 三井 桐畑 珠人

 かはら山神の篝のみ火白し さゆる霜夜のの斎庭照らして   大分 内柴 御風

 照りわたるぬれせぬ山のみあかしは 神のまもりの篝なるらん 八女 石橋 為次

 神がきにかがり火焚きて君が代を 千代萬代となほ祈るかな  福岡 吉田  實

 かしは手も御鈴の音もにぎはひて ゆにはのかがりもえさかりつゝ久留米梶村武三郎

 ゆ庭あげてまあかくなりぬかがりり火の 焔の末にむるゝまめ人 三井豊田良之助

 大神のみいつをそへて天が下 てらすが如く燃ゆるかがり火  三井 矢田 収蔵

      (筑後新聞)

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